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3000字小説 #1「ふたりの避暑地」
「ふたりの避暑地」
凛太郎とイザベラは手をつないで木陰に入ってきた。木陰のすぐ下には穏やかだが幅の広い川が流れている。ふたりは横に並んで寝転んだ。静かに目を閉じて、水の流れる音とアブラゼミのなく声、風が葉を揺らす音、ふたりの呼吸の音があった。それほどの幸せはなかった。この世の平和を全て詰め込んだようなひとときだった。イザベラは凛太郎の顔を覗き込むが、彼は目を瞑ったままで気がつかないらしい。イザベラは凛太郎の顔に近づき、彼の唇にそっとキスをした。凛太郎は優しく、ゆっくりと目を開き、イザベラを強く抱き寄せた。川沿いの木陰でふたりは重なり合った。ふたりは抱擁した。ゆっくりと時が流れていた。
イザベラは白い小花の刺繍のついた鮮やかな黄色いワンピースを着ていた。凛太郎はイザベラより先に真っ青なTシャツとカーキ色のショートパンツを脱いで下着になった。彼女を強くハグした。後ろに回した手がイザベラのワンピースのチャックをゆっくりと下におろした。ふたりは互いの裸を隠すために、ハグをし続けた。ふたりの体は背の高い夏草がすっぽりと隠した。優しい風がふたりの髪の毛を揺らした。
それからふたりは裸のまま川に入った。川に入ると、冷たい水に肩まで浸かった。ふたりは夏の日差しの下、痛いほどの冷水に浸かり、互いを強く抱き寄せ、体温で暖を取った。寒さで体が凍えてきて、震えとともにひたすらにケタケタと笑いが込み上げてきて止まらなくなった。大きく、真っ白な雲が二人の上にいくつも浮かんでいた。その美しい高原と冷たい川、日差しの強い夏はふたりだけの楽園だった。その楽園で、生まれたままの姿のふたりは互いの裸体を目に焼き付け、自分の中に相手自身を取り込むべく強く抱擁した。
自転車で風を切りながら里まで降りると、一軒の食堂がぼつりとあった。白のペンキで塗装された洋風な造りで、初老の女性が一人で営んでいた。のぼりには大きな文字で「自家製レモネード」の文字だけがある。店の前の立て看板には、他のメニューが書いてあったのでふたりは中に入って遅めの昼食を取ることにした。時計は二時半を回っていた。
食堂の窓は全て角が丸く、テーブルも椅子も角張ったものは何一つとしてなかった。ツヤツヤの椅子は全てライトグリーンだった。ふたりはとりあえずのぼりにあったレモネード、そして悩んだ末どちらもホットドッグを頼んだ。店主は空色のワンピースに真っ赤なエプロンをつけ、まん丸な老眼鏡とまん丸な狂った腕時計をしていた。彼女は注文を聞くとメモを取らず厨房まで消え、とても静かに、ほぼ無音で調理をし始めた様子だった。音楽はかかっておらず、厨房から規則正しい時計の針の音らしきものが聞こえてくるだけだった。
「あの音、たぶん、メトロノームだよ。」
イザベラが言った。
二人がログハウス風のホテルに着いたのは六時だった。日の長い夏では、まだ薄明るい光が残っていた。ログハウスは四十代ほどの夫婦が営んでいた。夫の方がホテルの説明と泊まる部屋へ案内をしてくれた。鍵は丸くて大きな木製だった。夕食は七時半。ホテル内の夕食会場へ行くことになった。
部屋の中へ入ると、床が木の音を軋ませた。大きな出窓が一つあり、凛太郎は窓を全開にして窓枠に腰掛けた。昼のときとは全く違う冷たい澄んだ空気とともに大きすぎる虫たちの声が部屋に入ってきた。窓のサッシには大小数えきれないほどの虫の死骸がつまっていた。凛太郎はそれらに息をかけて吹き飛ばそうと試みたが、化石のようになったそれらは微動だにしなかった。シングルベッドが二つ並んでいた。二つのベッドの間にはサイドテーブルがあり、その上には花の形をしたランプが一つ置いてあった。イザベラは窓側の一つのベッドに腰掛けた。
「くたくただね。」
凛太郎はそういった。
「うん、くたくた。」
イザベラは今にも眠ってしまいそうな表情で、しかし幸福な笑みを浮かべて答えた。凛太郎は窓枠から立ち上がり、イザベラの方へ近づいた。薄暗い部屋の中、ふたりは一つのベッドの上で抱きあって互いの顔にキスをし続けた。三十分が十秒に感じた。二人はいつの間にか眠りについてしまっていた。
時計は七時半を回り、ふたりの規則正しい呼吸音だけが聞こえる。凛太郎は部屋のドアがノックされる音で目を覚ました。
「夕食の準備が整いましたので、いつでもいらしてください。」
ホテルの支配人の婦人がドア越しに丁寧に伝えた。部屋の中は花形のランプが照らすオレンジ色の光で満ちていた。凛太郎は慌ててサイドテーブルの上に置かれた時計を見る。慌ててTシャツと短パンを履き、ドアを開け、すぐに行くと伝えた。ドアを閉めてベットを振り返るとイザベラは裸体に一枚の柔らかな毛布をかけたまま安らかに眠り続けていた。凛太郎はその姿をずっと眺めていたかった。栗色の彼女の髪に口付けをして、彼女を急かした。
夕食会場に着くと二人の他に三組の客がすでに夕飯を食べて進めていた。残された一つのテーブルの上には食器類が綺麗に並べられていた。白髪の老夫婦、歳の離れた姉妹と両親、館内着の一人の男性。みなほとんど会話をしていなかったが幸福な雰囲気があった。その空間には小さな音でショパンのノクターン集がかかっていた。彼らが入ったときには第六番が流れていた。
「明日の夜、この村の夏祭りがあるんですよ。」
支配人の婦人は言った。
「村の人たちだけでひっそりやるお祭りであまり知られていないのだけどね。」
奥さんは少し照れくさそうに、イザベラの方を向いて話を続けた。
「もし明日お時間があって、お祭りにも行かれるようでしたら、この食後でも明日の朝にでも教えていただけますか。もし、お嬢ちゃんが良ければなのだけどね、うちの娘が昔着ていた浴衣がいくつか眠っているの。」
イザベラは目を輝かせた。
「お借りすることができるのですか。」
イザベラは丁寧に婦人に尋ねた。
「お嬢ちゃんが良ければぜひと思って聞いたのよ。きっとお似合いになると思います。」
イザベラは上機嫌の中、ふたりは夕食をとり始めた。
夕食を終え、凛太郎は先に部屋へ戻り、電気も付けずに出窓に腰掛け、一人で外の景色を眺めていた。イザベラは婦人にホテルの裏にある小さな物置へ案内された。凛太郎の視界には目の前の大きな樹木とどんよりした暗黒しか広がっていなかった。空は雲が多いのか星は数個しか見ることができなかったが、月の光は雲の間からでも十分な光を注いでいた。凛太郎はかばんの底の方から一冊の緑色のノートブックとペンを出して必死に何かを記録し始めた。
しばらくすると、部屋の外の廊下が軋み始め、軽い足音が近づいてきた。
「凛太郎君、戻ったよ。」
イザベラの声とノックが同時に聞こえて、凛太郎は部屋のドアを開ける。
イザベラは繊細な紫陽花の薄紫と流れる青色の雨水の線の美しい浴衣を身につけていた。片手にはさっきまで着ていた黄色のワンピースをくるんで持っていた。凛太郎はイザベラを部屋の中に入れて、月光の降り注ぐ出窓に座らせた。彼女に軽くキスをして、彼は部屋の隅にうずくまっていた木製の折りたたみ椅子を彼女の前に設置した。
ふたりは向き合っていた。月光に包まれながら向き合っていた。
Fin