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ノーレート雀荘のフリーデビューで感じたこと

お読み頂く前に

リアル麻雀の初心者が、ただただ面倒臭い感情を吐露しただけのポエムのため、長いです。
麻雀中級者以上の方においては、「何を言ってるんだお前は」となる可能性が高いです。
私そう思いがちだな… とお心当たりある方はブラウザバックを推奨いたします🙇

経緯

2023/11/18 土曜日 に 新橋にある雀荘
ベルバードにて、ノーレートフリーデビューをしました。

X(Twitter) 上で、知り合った方々とセットを5時間くらいした後に、行ったので、ある程度 "麻雀脳" になっている状態で出向きました。

だから、私の中の "麻雀楽しむボルテージ 100%" の状態のお話となります。

フリーに行こうと決めた理由

セットの後にフリーに行こうと思ったのは、
11月 / 12月とベルバードさん主催の大会に、立て続けに参加するから。
「場慣れしたいな。」「ちゃんと練習したいな。」という狙いが強かった。

1ゲーム ¥500。
「投資をするからには、何かを得たい。」
そんな淡い期待を抱きつつ臨みました。

臨んだ結果

結果、3ゲーム打ちました。
結果は5-5-2 だったと思います。

いつもの麻雀 (リア麻、ネト麻問わず)なら、
「悔しいな」とか「嬉しいな」と感情が動くものだけど、その時は全く動かなかった。

負けても悔しくないし、勝っても嬉しくない。
振り込んでも和了しても "無" の感情しかなかった。
いつもの自分らしくなかった。

なんかモヤモヤしたまま、店員さんに見送られて退店しました。
感覚としては、何も得られないまま帰路についた。

モヤモヤの正体

モヤモヤしたままだと嫌な性格なので、
思考のアウトプット(ツイート)をし始めた。

決して、負けたからいじけて投稿したわけじゃなく。
その時に、自分が抱いている感情が「嫌」だったから。

「スマホでやるCPU戦と変わらないじゃん。」というのが率直な感想だったから。
こんな感想を本音抱いてしまう自分が嫌でした。
後述しますが、リア麻やめたいとすら思っていた。

なぜならば、何事においても
”お金払ってるのに、面白くない(≒つまらない)と感じてしまう”
のは、馬鹿馬鹿しい事この上ないと思うから。

なんとかその感情を解消したくて、
この辺りを自分の中で掘り下げ始めました。

掘り下げた結果

掘り下げた結果。
「せっかくお金払って時間も使っているなら、何かしらのリターンを得たいし、せっかくなら面白くしたいってモチベーションが自分の中にはある」ということが分かった。

仮に「つまらねぇ!」で私の中の感情が終わるのなら、
一生ノーレートフリーに行かなきゃいいだけ。

私の発信を受け取った方々に、そこは誤解してほしくないなと思ってます。
同卓してくれた方、誘導してくれたお店の方を下げる意図は全くありません。

つまらない映画とつまらない麻雀の違い

少し話は逸れますが、
お金を払ったことを後悔するような映画鑑賞とは違って、麻雀は自分たちが作り手であり演者であり鑑賞者。
同じ「つまらない」と感じる内容であっても、前提が大きく異なる。

だから私は今回の感情に関して、(自分の中で) "変えられる可能性が高い"と踏んでいました。

映画と麻雀、「場や機会が作られたものと、これから作るものの違い」というのもあるだろう。
それぞれ「受け手によって解釈が異なる」というところは共通するかもしれないが。

映画なら二度と見ないし、何なら途中で退席する。
しかし麻雀は途中退店するわけにもいかず、望まなくとも自分が4分の1のファクターを必ず占める。
だから比較的容易に「つまらない→面白い に昇華させていくことができる」と私は捉えています。

麻雀の呆気なさ

結果はともかくとして、ノーレートフリーで打って感じたこととしては以下のようなことだった。

文字数の関係で「儚さ」という言葉で結んだが、感情としては「呆気ないな」という所が本音だった。

一番呆気ないなと思ったことは次の内容です。

見ず知らずの人とマッチングして、無言で淡々と場が進んで、声が聞こえたと思ったら点数申告で、返事して払って終わり。 当たり前のことだが、振り返れない。

「2000は2300」→「はい」→(無言で受授)
「7700」→「はい」→(無言で受授)
etc…
これしかやりとりがないから、あっけない。

そのやりとりの後、和了した人以外の手が見えずに崩されて、全自動卓の中に収められていく。あっけない。
主観の感情だけで語るのであれば、「勿体無い」が近いかも。

私はというと目の前の手で「自摸ってテンパネだから、3翻だから… ええと….、あっ自摸番だ・・・ええと…」みたいなので忙しくて。
忙しさの中に呆気なさがあって、自分の中のストーリーと向き合うゆとりがないのだ。

この "呆気なさ" に関して、
決して "フリーの在り方" を問うているわけでなく私はこう感じたというだけなので、そこはどうかご承知おきください。

行ったことはないが、オンレートなら、
言葉の選択を間違えたりで「煽ってんのか!」とかのトラブルがあるかもしれないから、下手な事言えないのは分かるけど。

ノーレートにおいても、これしかやりとりがない。
それがフリーにおいてはスタンダードなんだろうから、理解は示してます。
ただ、「なんか呆気なくて、寂しいな」と本音 感じてしまった。

麻雀の儚さ

4人が卓を囲んで、それぞれの展望があって、組み立てがあって、成就する/しない があって。

結果だけ見て、ICチップが入った棒の受授だけして。
何が面白いんだろう。
精査する時間も与えられず、「たられば」も語り合えず、引き出しも増えず….。
ただただ、儚く、その場が流れ続けるだけ。
上積みもなく、時間とお金が使われていくだけ。

そんな感情がずっと、自分の脳みそを巡り巡っていました。

たらればについて、「麻雀ゲーム(アプリなど)の結果」と捉えたら まぁ…いいか。になるんだけれど、
人が介在する場においては、正直物足りませんでした。
そこに私は儚さを覚えました。

しかし、”儚い”と捉える以前に、
共通の趣味の人たちが卓を囲んで、1ゲーム数百円のお金を払って、ただの自己満足で何の見返りもないんだったらコスパもタイパも悪すぎなのでは。と感じてました。

「お店の成績表に反映されるので、そこの向上を目指す!」
とか
「常連店だったら顔馴染みにそのうちなるから、交友の積み重ねになる!」
とか、もしかしたらあるかもしれない。

しかし、それがマジョリティーか?と問われたら、果たしてどうなんだろう。という感じが私の中にはある。
かろうじて "店員さんと多少の交友の積み重ねが生じる" のが関の山ではないだろうか。

この辺り含めて、時間とお金をかけているのに、、、
改めて、儚いなと感じてしまった。

麻雀の孤独さ

麻雀は点棒の受授含めて、瞬間でその局が終わる。
が、「麻雀が強い方々はその中でも瞬時に検査をしているんだろうな。」という感情を私はポストをしていく中で覚えた。

その流れで抱いた感情としては
「この雀荘の流れの中で、それを会得しているのであれば、なんて孤独なんだろう。」
「そんな孤独なサイクルの中で培われたイロハと、私のような初心者が対峙して良いのだろうか」

というものだった。

今回の私は「場慣れするためにフリー行こう〜!」くらいのノリで出向いたが、”場慣れ以前に土壌が違う” となった。
経緯はさておき箱ラスにもなったし、もしかしたら2着目の人の逆転手を潰してしまっていたかもしれない。

そこの土壌を踏まえて、自己を見つめ直したら。
本音、雀荘のフリーは障壁が高すぎる。と感じてしまった。

人間は高い壁を目の前にすると、唖然として、その壁を登る感情を一時失ってしまいがち。

「この壁をこの場にいるほとんどの人が超えてきたのか」
「この壁を登り易くするために、ベルバードさんは初心者マークを導入したのか」
「この壁を登り易くするために、OneGameさん、HQ麻雀さんは教室を事業として扱うようになったのか」
…. 様々な点と点が線になった感覚がありました。

雀荘のオーナーやスタッフは誰しもその"孤独さ"を人知れず乗り越えて手に職つけているんでしょうね。
"孤独さ" を意識して、それでご飯を食べ続けている人は、ものすごく少数な気がします。

というのは、そこに向き合うのがきつすぎて、放棄したくなるだろうから。

そこに対して、何か思うことがあれば、少しでも歩み寄ったり改善したりしたいと願うのかな? という面で、上述したような雀荘やスクールの関係者、スタッフの皆皆様には尊敬の念を抱きました。

ノーレートフリーの私なりの結論

つらつらと、私が抱いた感情について書いてきましたが、
詰まるところ、私の悩み(理想とのギャップ)は以下のポストにもあるようなことでした。

「開かれた瞬間に、自分の展望との答え合わせができない」

もしも麻雀の神様がいて、自分の願いを叶えてくれるのなら、「開かれた瞬間に答え合わせができるくらいの麻雀の解像度を持ちたい」と願うと思います。

ただ、場面だけじゃないメタ読みも麻雀の面白さとしてあると思っていて。
そこは神様に願っても与えられるものではないでしょう。

囲碁や将棋やチェスのような「絶対的な正着(良い悪い)」がある競技と違って、麻雀は結果論でどうとでもなる競技と捉えています。

「効率✖️個々人の打ち手の展望=打牌選択」になって、自摸さえ効けばそれが正解になっちゃうから。

そのメタ読みになりうる仮説を立てられる材料が、私が参加したフリーには、本音ないと感じた。
熟練者になったら、対峙しただけでオーラから読み取れるとかあるのかもしれませんが。

この辺りが、ランダムマッチングのCPU戦のように感じてしまった大きな要因かなと自己分析をしています。

初めましての挨拶もなく、無言で局が進み、検査もなく、消化され続ける。
競技性が薄れて、私の気持ちが乗らない、大きなファクターの一つだと思った。

詰まるところ、
「初心者が麻雀の解像度を上げるためにはフリーは向いていない。まずは麻雀における自己を確立するのが優先だよね。」という結論に行き着いた。

尚早だったのだ。
気持ちやメンタルの問題ではなく、レベリングをする前に倒せない敵に挑んだゲームと同様だった。

麻雀は「運」の要素が強いため、なおタチが悪い。
その「運」だけで勝負ができてしまうのだから。

この記事につらつらと書いてきた物事については、勝負以前の話で。
私はノーレートフリーの方々と同じ土俵に立てていなかった。

デビューする前に、やるべきことがたくさんあった。と感じた。
たかが趣味だと割り切るのは容易いが、そこに甘んじることなく精進したい。
私の楽しみ方が全てではないし、フリーやノーレート雀荘に変わってほしいなど願ってはいない。

私なりの最適解を探りたい。知らないことばかりのこの世界において、私なりの楽しみ方を見つけたい。
願わくば、今の私に近い感情を抱く麻雀初心者の方々に何かを示せるなら示したい。

そのために私の外交的な性格や、ポジティブマインドだったりが、うまく機能してほしい。
この note の発信で、「私だけじゃないんだ」と安心した方は、ぜひ仲良くしてほしいです。

麻雀の現実

話が少し逸れてしまったので戻します。

「麻雀を楽しむ」ということ以前に、「楽しいから麻雀を打っている」という感情先行が、プレイヤーのほぼ全員に共通することなんじゃないでしょうか。

その中で、
「強くなりたいよりも、楽しく打ちたい!」

「楽しく打つためには、強くなりたい!」

「強くなりたいよりも….(ry」

という♾️のサイクルを、どんな打ち手も持っていると思う。

恐らくソレを諦めた瞬間に "熱" というのが冷めてしまう。
私もツイートを連投していた帰り道は冷める寸前まで行ったと思う。
私の中に、そうなりたくない感情もあったから、ひたすらに掘り下げてポストを連投していたんだと今更ながら振り返る。

この "挫折に近い何か" を 1500円の投資 で得られたのなら、
「これは立派なリターンだな」と自己を納得させている。

(追記)
幸いなことにこの発信をしたおかげで、繋がった方々が多くいます。そういった意味でも、投資のお釣りどころか エビで鯛を釣った感覚を覚えています。たくさんの反響に驚いています。感謝。

同卓することの「価値」とは何か?

少し話は変わるが、上述したように「1500円のリターンが得られた」と私が解釈しているってことは、"何かしらの価値があった"ということになると思う。
その上で、"麻雀で同卓することの価値" ってなんだろうか?というところも、割と疑問を抱いたので自己体験を踏まえて考えていた。

「価値は体験にこそ宿る。」と私は多くの場面において考えているが、麻雀においてはどうなんだろうという観点でも考えていた。

私ごとだが、
先日、滝沢和典プロとKONAMIオフ会で同卓をしました。

実際、私が「手組み頑張るゾ!」と意気込んだ所で、
手は来ず、聴牌もしない。

ひたすらに上家にいる滝沢和典さんをチラ見してたら、
一瞬で時間打ち切り終了になった。

夢のような時間だったが、とても呆気なかった。
フリーで感じたものと同様に、呆気なさを覚えた。

それでもフリーで感じたような感情ではなく、とても充足感があった。

抽象的に捉えるならば、「お互い面識がない中で麻雀を打って呆気なく打ち終えた」になるが、打ち終えた後の感情には大きな違いがあった。

「同じプロセスを踏んでいるのに結果が変わる」
おそらく「前提」が変わるからだと思うが、この辺りに言及すると、記事が更に長くなりすぎるので、割愛します。

話を戻して。
プロ相手との対局時、囲碁や将棋やチェスなら、
自分の実力さえあれば「おっ、やるな」と思ってもらえる機会がある可能性がある。(と思っている)

しかし麻雀においては、異なるんじゃなかろうか。

仮に、
天和を和了したとしても記念にしかならず、
無駄ヅモなくリーチしたとしても運でしかなく、
滝沢和典さんの和了牌を抑えたとしても、ほとんど場合は流局して伏せて相手から認知されずに終わる。

思い出にしかならない。
なぜならば、これらは全て、一過性のものだから。
そこだけで相手に認知しろというのが、私なりの解釈だと、無理なのだ。

打ち手がどんな実力者だったとして相手に印象を与えられる可能性がない。
麻雀というのは手組みも結果もほとんど一過性のものだ。

この一過性で結果しか評価されない(できない)というのが、一番の儚さの要因なのかな、と。
本質的には、「一過性な物事だけでは評価できないから、評価する文化がないのだろう。」と推測もできる。

「一過性のもので評価できないとするならば、大局観で話されるべき」で。
それは「強いから勝ったのか。勝ったから強いのか。強いから勝ち続けられるのか。勝ち続けられるから強いのか。」みたいな話になると思う。
が、話が逸れすぎるため、今回は割愛する。

そんな一瞬でも、滝沢和典さんにはお金と時間をかける価値がある。
そう思わせる何かがあるからこそ、連盟のスターであり、麻雀界の人気プロなのだろう。この辺りはうまく言語化できないが、「プロがプロたる所以」を感じたことだけ、今ここに書き留めておきたい😌

滝沢和典さんからのいいね

脇道に逸れます。
そんな「推し」から、連投ポストの一部にいいねを貰ったのは大変恐縮でございました。
有難いが、何が「いいね」なんだろう・・・・w

自分の願望?

長くなったが、そろそろ結びに持っていきたい。

ここまで感情を吐露してきて、言語化することで嫌でも自分と向き合って、気づいた望みのようなものがある。

プロのイベントに多く参加すれば、お相手のプロから「前も会ったことある」程度には認知されるかもしれないが、どうせならお互い同じくらいのメタ読みした上で、同じ土俵で戦って、話してみたい。その上でプロってすげぇなって打ちのめされたい。

自分の向上心はプロ活動をしている方とのギャップを感じて、初めて成就するものなのかなと感じた。

この文章を書いてて分かったこと。
麻雀界のいろんな人と話したい。
芸能人や有名人に会いたいとかは微塵も思ったことないけれど、有名無名問わず、自分が趣味としている競技でご飯食べている方々のお話を聞いてみたいという感情があることに書いてて気がついた。

….この辺りは また後で冷静に考えよう。
麻雀関係者の方。飯代奢るので楽しく会話しながら美味しいご飯食べましょう🙏

終わりに

どうやったら自分がノーレートフリーを楽しくやれるのか?
沢山吐き出しても、正直わからなかった。

妻からは、フリーよりも合うものがあるんじゃないか?とアドバイスをもらった。

次はOneGameさん行ってみようかな。
別の麻雀プロの方からも似たようなこと言われた。
だから、今後はその方向性で自己を高めて、いつかまたノーレートフリーにリベンジできるといいなという楽しみが今の自分の中にはある。

今年頭からのMリーグ観戦に始まり、麻雀の解像度が日毎に上がっていく。毎日楽しい。
せっかくの趣味なら、長い目で楽しみたいです。
老若男女ハンデなく楽しめる数少ない競技なのだから。

願わくば、同じ好き同士で、そう遠くない温度感で、人生を彩り豊かにしていきたい。

今の私の日々の彩りの一部として、麻雀が間違いなくあるから、似たような価値観の方、仲良くしてほしい。
年甲斐もなく包み隠さず願望を吐露していますが、笑って許してほしいw

麻雀レベル問わず、正しいゾーニングがなされて、
多様な意見や考え方が認められて、各々が彩り豊かになることをかげながら願ってます。

fin.

内容も文章も感情もよくまとまっていないけれど、適宜整理して更新していけたらと思ってます。

最後までお気持ち表明記事読んでいただき、ありがとうございました。

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