見出し画像

私のロールモデル【技術屋編 故・Hさん(醸造技術者)の思い出】

私は氷河期世代、稼業は工場系技術屋兼中間管理職である。社会人20年目ともなると、「あ、自分のこのスタイルは、昔お世話になったあの人の影響だな」という思い出を何人分も挙げることが出来るようになる。

「歳を取ったらやってはいけないのは説教、昔話、自慢話」(by高田純次)が座右の銘の私であるが、昔話を一つくらい残しても罰は当たらないだろうという安易な気持ちの下、本稿では私が社会人駆け出しの頃お世話になった技術屋の先輩が今の私にどう影響しているか、述べてみたい(「中間管理職編」も書こうと思えば書けるが、気分次第)。

1.Hさんのこと

就職氷河期の真っただ中に私が大学院(修士)を卒業して、技術系総合職として新卒で入社したのは、ある国内酒類メーカーであった。当時、体育会系酒呑みだった私にとっては、「仕事として毎日昼から酒が飲めるぞ」入社を決めた殺し(殺され?)文句だった。微生物の遺伝子をいじくったりする生化学系の専攻だったので、当然中味の開発でもやるんだろうと思っていたら、工場の品質管理部門へ配属された。その工場の醸造部門で、当時入社3年目の若手生産技術者だったのが「Hさん」である。

Hさんは関西の出身で、年齢は私より4歳上だった。ご本人曰く非常に荒れた中学を卒業し、地元の高校でラグビーにどっぷりハマり、浪人の後その高校からの入学は至難とされる某旧帝大へ根性で進み、バンドにハマりながら生化学系の専攻を卒業した、気合の塊のような人だった。私と同じく、「仕事として毎日昼から酒が飲めるぞ」の殺し文句に誘い込まれたらしい。

彼の影響が今の私に表れているなと感じるのは、「アカデミックな原理・原則と工場の現場・現物・現実をリンクさせる」と言う点である。

Hさんの口癖は、「俺らはバイオケミストリーを修めた人間や」だった。工場の技術屋の仕事と言うのは、ともするとアカデミックな原理・原則の領域から遊離して、実務経験や勘でとにもかくにも乗り越えていくような部分がある。醸造の分野は元々品質にバラつきのある農産物が原料である上に発酵という生体反応を用いる工程であるため、一般の化学反応系プロセスとは違って特に「実務経験や勘」に頼るきらいがあり、「何故発酵工程の管理条件をこう設定するのか」と言った部分は、特に現場の管理監督職・作業者にとってはブラックボックスになっていることがある。Hさん以外の大卒技術系社員の先輩の仕事の仕方も概ねそういったものだったし、新入社員の私も「まあそういうものだろう」位に思っていた。

しかし、「バイオケミストリーを修めた人間」Hさんだけは他の先輩社員とは異なり、日本語のみならず英語、ドイツ語の文献をいつもどこからともなく漁って来て、私のような技術屋相手だけでなく、現場の管理監督職・作業者一人一人にまで丁寧に、工程条件の設定根拠を原理・原則に即して講義していた。「アルコールをエステル化する反応系の中で、律速はここの反応やろ、この反応を促進するためにタンクの設定を○○から××にするんや。そうすれば嫌でもこの反応が進む方向になるやろ?これやらんかったらいつまで経ってもエステルなんてでけへんで」なんて具合である。

醸造工程というのは500m3、600m3クラスという馬鹿でかいタンクが何十基、更にそれらが複雑な配管で繋がれており、外から見ても中で何が起きているかよく分からない。更に自動化することで工程そのものがブラックボックス化しており、作業者は作業1つ1つの意味を今ひとつ理解せずにオペレートしがちという、典型的な装置産業系・プロセス型の工程である。作業の意味を理解せずにオペレートするリスクは当然品質、安全、環境様々な管理面からも大きく、「何でその状況でそれやっちゃったかな」的なトラブルもある。

当時の私には、Hさんは純粋にアカデミックな原理・原則を自分の担当工程に当てはめることに知的興奮を覚えているように見えていたが、今思うとHさんの講義はそう言ったリスクやトラブル低減のための現場技術教育という側面が強かったように思う。Hさんは現場の人達が大好きだったし、現場の人達もHさんのことが大好きだった。「現場の人にしても、訳も分からずに言われた作業を毎日やるだけってつまらんやろ?この作業、何でこういう設定にするかということを皆に分かって欲しいんや。そうすれば応用も利くようになるし、変なトラブルも減るやろ」という、Hさんなりの情熱があったのだろう。要はアカデミックな原理・原則を工場の現場・現物・現実を司る現場メンバーにリンクさせて、その管理レベルを向上させていたのである。

私も工場実務における「経験や勘」は否定しない。寧ろ、それらがないと仕事は回らない。しかし、技術屋である以上、アカデミックな「原理・原則」を工場の「現場・現物・現実」に活用してこその技術だと言う思いもあるし、それが「5ゲン主義」の思考回路の一つではないかと思う(もう1つの思考回路は「現場・現物・現実の観察から原理・原則に立ち返る」方向)。

2.その後のHさんと私

Hさんの思い出は他にも沢山ある。VBAを自分で勝手に1から勉強し、現場が使う工程データ管理用に超複雑なマクロを組んでみたり(今思うとあれはRPAの走りだったのではないかと思えるレベル)、「俺はいずれアメリカに留学してバイオケミストリーを極めるんや!お前もやれ!!」とGMATの問題集をくれたり(今でいう意識高い系だったのだろう)、後輩の私が一人でウジウジ悩んでいると「アホ!呑み行くで!!」と毎日のように連れ出してくれたり(その席も、いつも会話の95%はHさんによる技術論講義になったものだが)。楽しい思い出には枚挙にいとまがない。

そんなHさんだったが、原因不明の病に罹り、冬頃から出勤が難しい状況が一時期続いた。そして、私が入社2年目を迎える春に、「現場に迷惑を掛けたくない」と退職してしまった。会社としては「工場業務が体力的に厳しいのであれば、研究所へ異動」等の案で慰留しようとしたようだが、本人の意思は固かった。Hさんが上司へ退職の意思を告げた日に、Hさんから「ちょっと話がある」と呑みに誘われて、いつもの駅前の安い居酒屋で二人で遅くまで飲んだ。寂しかったが、現場が大好きなHさんの「現場に迷惑を掛けたくない」という思いは理解していたし、「いずれ留学したい」と言う話もずっと耳タコで聞いていたので、応援することにした。

Hさんとは退職後も付き合いが続いた。Hさんは「バイオケミストリーを修めた人間」として「アメリカに留学してバイオケミストリーを極める」ために、大学への復帰を目指した。そして実際にアメリカの或る名門大学から入学許可も得たが、原因不明の病という体調の問題があり、結局留学は実現しなかった。

そして、Hさんは退職から4年ほどして亡くなってしまった。葬儀の時に、高校のラグビー仲間の方々が「アホ!お前何死んでんねん!!」と笑いながら泣いていたのが忘れられない。私はその後、Hさんと働いた会社で幸か不幸か北米駐在を経験し、言語の面や文化・考え方の違い等様々な苦労もあったが、「アメリカに留学してバイオケミストリーを極めるんや」という夢を果たせなかったHさんの分まで頑張ろうと思って踏ん張れた部分は、とても大きい。

社会人になって20年。仕事で行き詰ったり迷ったり、転職するかどうかでウジウジ悩んだ時、「こういう時Hさんだったらどうするかなあ」と考えながら判断してきたことが多かった気がする。Hさんのように原理・原則を現場・現物・現実に対して(或いはその逆も)使いこなせる5ゲン主義の技術者でありたいし、スキルは自分で勝手に身につけるビジネスパーソンでありたいし、最後は「アホ!呑み行くで!!」で良いと思っている。今の私があるのは結構な割合、間違いなくHさんのおかげである。今の稼業を続けている限り、Hさんは私のロールモデルでありつづけるだろう。【了】


いいなと思ったら応援しよう!