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宗教団体コルポリスについて

 我々コルポリスの根幹を端的に述べるとしたら、己の肉体を通じて外部と関わること、そして「無限」に思いをはせることである。我々の信仰は決して精神のみにおいて完結しない。また、精神に特別な立場を与えることもしない。重要なのは肉体である。以下において我々の信仰と実践をそれぞれ述べる。しかし、以下に述べる内容はあくまでこれらの根幹に付随するものなのであり、これらの根幹を実践することを目的とする限りにおいて、議論の余地があるものである、ということは付言しておく。

1、信仰について
 我々は信仰「対象」を持たない。しかし、それは何も信仰しないということを意味しない。我々の信仰は目的語を持たないのだ。つまり「我々は信仰する」という他のない信仰である。我々が信仰するのは「無限なもの」だ。しかしこれは「対象」ではないし、便宜上このように呼ぶだけであって目的語にとることも本来できないのである。これはどういうことか。

 ある対象というのは、必ずなんらかの世界に属するものである。例えば、「私」という対象は例えば「人間」という世界に属する。そして「人間」というものもまた対象であり、例えば「動物」という世界に属する。このようにしてみたとき、「世界全体」という対象の外側にもなんらかの世界が存在するし、その「世界全体」を含む世界を含む世界も存在する。これは無限に続いていくのである。我々が信仰するのはまさにこの「無限」なのだ。この「無限」というのは対象ではない。もし仮にこれを対象にしてしまったとしても、まだその外に「無限」が続くのであり、またそれも我々の信仰が思いをはせるところである。

 我々はこの「無限」というものを認識することも考えることもできない、つまり対象とすることができないのであるが、だからと言って否定神学のように「〜でない」ということしかできないとは言えない。少なくとも一つ言えることがあるからだ。というのはつまり、この「無限」というものは無限であるのだから、当然我々自身をも含むということである。我々の宗教の実践は全てこの「無限」に対して自己の全存在を投げ出すためのものである。


2、 実践について
 我々の言う「無限」というものはもちろん、我々の内にあるものではなく、我々の外にあるものである。「無限」は我々をその内に含むのであるから、これは当然であるだろう。であるならば、我々がすべきことは我々の精神の内側に閉じこもることではない。「無限」に思いをはせるというのは、自己の外側に向かう信仰なのである。それゆえ必然的に我々の実践は我々の外側を志向することになる。

 我々が我々の外側と交わるのは肉体においてである。ここで肉体ということが問題となってくるのだ。

 まず我々が最初にすべきことは我々の肉体を確認することである。というのも、我々の肉体それ自身の存在が希薄なものであるとき、我々は我々の外側との繋がりを実感することができないからである。肉体を確認するために必要なのは、言わずもがな肉体を使用するということだ。その結果肉体は疲労し、我々はその存在を知ることができるのである。例えばトレーニングをして自分の肉体に向き合うのも、あるいはスポーツをして身体を動かすのも、どちらも結構なことであろう。しかし、まず我々の目的は肉体を鍛えることではない。我々の目的は肉体を通じて外部と関わることなのである。そのような目的において最適なのは歩くことではないだろうか。もちろん、歩くことに支障のある人はなんらかの形の移動でよいだろう。なぜ歩くことが最適であるかというと、歩くという行為は自己の肉体を確認すると同時に、様々な外部との接触を生むからである。この点において、歩くことはスポーツよりも優位であると言えるだろう。

 また、次に「無限」に思いをはせるということであるが、ここで「思いをはせる」という表現を使っているのは、「無限」は対象にできないが故に、直接肉体によって接触することができないからである。だが、それでもやはり肉体を介して「無限」を志向することが必要になる。くどいようだが、「無限」は我々の外部であり、外部に接するのは肉体だからである。ここで、信仰の行為が必要となる。それは「祈り」とはまた違う。というのも、「祈り」というものは対象を持った行為だからである。我々がすべきは外部に対して心を開く行為だ。

 ここで「心」という言葉が出てきた。これは日常用語の心と同じものと考えて構わない。だが、肉体によって外部と関わると言っていたのに、なぜ心が出てくるのか疑問に思う人もいるだろう。そこで断りを入れておこう。もちろん、直接外部と接するのは肉体であるが、肉体と外部の関係だけでは、自己を幸福にすることはできないのだ。心―肉体―外部の関係が必要だ。まず肉体の存在を確認したのは心と肉体を結びつけるためである。

 話を戻して、この外部に対して心を開く行為の実践についてだが、これは例えば両手を合わせて目を瞑り自分の呼吸をみるなとの方法がよいだろう。呼吸をみることによって自己の肉体を意識することもできる。このような行為は朝夕1日2回程度行うのが好ましい。継続的に続けることによって「無限」の実感や、「無限」への思慕は強まっていくだろう。

 また、他の実践として、特別の必要がない限りにおいて、週に一度程度、文字情報を遮断する日を設けることも効果的であると思われる。多くの情報に飲み込まれ精神のみに拘泥してしまっている人間というのは、肉体の存在感が希薄になってしまい、実のところ外部とと十分に関わり切れていないのではないだろうか。具体的には、スマートフォンばかりを見ているのではなく肉体を動かすことも必要であるというようなことだ。


3、 コルポリスについて
 以上で、我々コルポリスの教義について大まかな概要を述べたことになる。これらの内容は今後議論されていくべきものであるし、まだまだ多くの課題を持ったものである。我々コルポリスは根本教義に賛同してくださる方の入会をいつでも待っている。数多くの同胞達と教義について議論できる日が来ることを望む。

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