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スマホと性行為

 セックスにおいて相手の性感帯を刺激して反応を楽しむというのは、そこに支配欲とか所有欲が介在するにしても、赤ん坊が物を叩いて音を鳴らしケラケラ笑うような、あるいは矢を放って生きた動物を殺すような、直接土に手を触れて農作物を育てるような、素朴で根源的な喜びなんだろうと思う。これはつまり自分の動作によって何かが作動するという自分と世界との繋がりの実感であり、生の充実感である。

 しかし、この私と他者との関係は現代においてはそこかしこに溢れている。つまり、我々は毎日指の先の動作によって機械を作動させているということだ。この人工的な動作-作動の連続に疲弊しきった現代人はセックスにおいても機械以前の人々とは違った感じを受けているのかもしれない。

指先でスマホを喘がせ疲弊する回転木馬は支配の機械

繰り返す動作-作動の連続にお前の愛もすり減っていく

 これは以前私が詠んだ短歌である。だけども、これは性行為のある一つの側面について言えることであって、やはり、肌と肌を触れ合わせるという行為は、自分の存在を確かめさせてくれるということに違いはない。私達は自分自身について、何かに触れることなしには知覚することはできないのである。

 とはいえ、ある一面であったとしても、私達の根源的な喜びの一つがスマホなんかに汚されているのだとしたら、それはとても残念なことだ。文章を書くのも、なにかを読むのも、誰かと繋がるのも、動画を観るのも、なんでもかんでもがこの小さな画面の上で完結してしまう。肩が凝っても、嫌気が差しても、もう私達はこの画面から離れることができないのだ。そして、私達は疲れ果て、目と指先以外の身体は全部腐ってしまう。

 だがまあ、長らく性の主体としての立場を追われ、このような喜びを享受する機会さえ奪われてきた女性の歴史を考えると、大したことでもないのかもしれない。

 とまあ、こんな感じで愛と社会の関係について丁寧に描いていく小説を現在執筆中である。私は愛というのは基本的に排他的で反社会的なものであると考えているのだが、2人の関係の間には社会的なものが割り込んでくるし、そもそもその2人の関係というもの自体が社会的に作られたものであるかもしれなかったりもする。その辺のところは描きがいがありそうだ。

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