見出し画像

新しい世界認識の為の新しい主体

 今日バイトをしているときに、ふと変な感覚に陥ってしまった。客からみて僕達はただの機械のようなものだし、彼らと僕らは全く違う認識を世界に対して持っている。そして、働いている僕達も一人一人別々の認識をしている。このように個的主体の各々が別の世界に対して認識を持っているにも関わらず、我々は同じ世界を生きていると通常考えられている。このことが何か変な感じがして、目の前の世界がぐらついたのだ。このような状況では個的主体がそれぞれの世界の中心となる。しかし、実はこのような主体の捉え方こそが様々な問題を生んでいるのではないか。

 この間僕は三島と全共闘の討論を振り返った「三島由紀夫vs東大全共闘」というドキュメンタリー映画を見たのだが、その中で三島は他者ということについて次のような議論をしていた。学生運動が政府に反抗するとき、彼らは政府の中に彼らに攻撃的な主体を見るし、機動隊も反乱する主体として学生運動を見るからこそ鎮圧しようとする。このように、相手に主体を認めたときそこには衝突が起こるのである。そして他者との関係というのなこのような仕方によってのみ生じる。三島の議論の概要は以上のようなことだ。三島はこのような相手に主体を認めた上での一対一の衝突を「決闘」と呼んだが、どちらにしろここで生じるのは一種の暴力である。このような衝突は対等な関係に相手であればそれほど問題にはならないのであるが、そこに上下の別が生じたとき厄介なものとなる。例えば、西洋中心主義が引き起こした植民地支配、男性中心主義が引き起こす女性差別、人間中心主義が引き起こしている環境破壊などである。このような対立・暴力というのは自と他を二項対立的な主体として捉える捉え方において生じるものである。このような捉え方において対立を避ける為の方法は2つである。1つには相手に主体を認めないこと。しかし、これはこのような捉え方においてはそれぞれの個人は主体を持ったものなのであるから、相手の主体を認めないということはつまり相手の主体を奪うということになる。映画のなかで三島はサルトルの言葉を引用して「1番卑猥なものは縛られた女の身体である」と述べているが、これはそのようなエロティシズムである。先に挙げたような男性中心主義や植民地支配支配、環境破壊などの問題は相手に主体を認めないという関わり方からも生じている。これは先に述べたことと矛盾しているようだが、このことこそが自身を中心とした主体の捉え方が生む問題でもあるのだ。相手の主体を奪うということはその前の段階として相手に主体を認めている段階がある。この時相手から主体を奪うためには自と他が切り離されなければならない。そこで暴力が可能となる。そしてその暴力に屈した側は主体を奪われるのである。これはちょうど武力によって主権を奪われた植民地を思い浮かべると分かりやすいだろう。このように相手に主体を認めないという関わり方において対立を避けられたとしてもそこで生じるのは支配である。


以上が以前に途中やめにしてしまった文章である。ここで僕はおそらく、自他を区別しないような主体ということについて述べたかったのだろうと記憶している。それは仏教的な悟りの境地であり、我々凡人にはまず不可能であろう。だけども自然と一体化した自己というものを考えるとき、自己と自然が一体であるならば、他者と自然も一体であり自己と他者も自然を通して繋がることができるはずである。(もちろんここでいう自然というのは草木や山や川のことではなく、宇宙の根本原理としてあるようなものだ)このような自他の関係を措定するとき何かと何かの対立は自然の中において本質的なものではなくなる。そのような趣旨のことを書きたかったのだろう。

だが、このような素朴な考え方には批判の余地が大いにあるだろう。例えば、マルクスガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』において、すべてを包括するような世界全体というものはありえないということを論じている。うまく論理を追って説明できる自信はないしめんどくさいのでここでは説明は省略するが、なかなか説得力のある議論である。世界全体というものが存在しないのであれば、我々はどのように超越的な自然と関わり合うのか、そしてそのような多元的な世界観のなかでどのように普遍性を確立するのか、ということは今後考えていかなければならないだろう。今の僕の問題意識としてはそんなところである。また、マルクスガブリエルは意味の場という概念を用いるが、もちろんそれは人間にとっての意味であり、人間中心主義を抜け出てはいない。もっともマルクスガブリエルは人間中心主義を抜け出すつもりはないのだろうし、世界全体の否定も絶対的な価値観というものの出現を阻止するためでもあるだろう。しかし、様々な意味の場を措定した多元的な世界観を我々が共有したとして、多様性ということは認めら無理やりある価値観に強制しようとするような無益な争いは防ぐことができるにしても自他の対立は根本的に解決されないだろう。まあ、自他の対立を根本から解決しようとするような思想は全体主義的になってしまうのかもしれない。もしかすると、新しい主体というものは個人が集団のための一部分でしかないようなそんな状態を生み出すものかもしれない。だけども、我々がふと感じるような自然の一部として生きているようなあの実感はなんなのだろうか。ありとあらゆるものとの関わりの中で生きているというこの事実はやはり重要なものに思えて仕方がないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?