【再投稿】意味不病みエッセイ「死にたいから、死にたい。」
この文章は3ヶ月ほど前に別のnoteアカウントで投稿していたものです。
もしかしたら読んだことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、このままアカウントだけ作って放置しているのも忍びないので、運良く残っていたこの意味不エッセイを投稿しておくことにします。
ちなみにその別アカウントはお得意のSNS全消しの餌食になっております。
★スタート★
プログラミングされている、と感じるときがある。
目次があらかじめ決まっていて、それに沿って自分の物語を紡がなければいけないという強迫観念がずっとあった。いや、今もまだ残ってしまっている。
機械が人間に近づいているのではない。人間が機械に近づいている。僕が大尊敬している養老孟司大先生がおっしゃっていた。
機械が便利だからといって、人間自体に機械的な生き方を求めている気がする。やれ言われた通りにしろだの、やれそれくらいできなければダメ人間だだの。それが理不尽だということは少し考えればわかることだ。人が道具になってしまう社会なんかおかしい。人は既製品ではない。ましてやあなたたちのオーダーメイドでもない。なぜ、あなたたちが上の立場だということに自信を持っていられるのか不思議だ。背格好だってそんな変わらないのに。
風邪を引くとわかっていても、靴下も履けない。喘息がひどくなることがわかっていても言われなければ吸入をしない。だって大部分の人間は室内で靴下を履かないくらいで風邪を引かないだろうし、大体の人間は喘息を持っていないだろうからアドエアを使うこともない。
病院に行くタイミングもわからない。普通の人は僕のような頻度で病院には行かないことくらいわかっている。だから行くべき時に行けない。母が気にかけてくれなければ、いつの間にか動けなくなっている。こんなことを繰り返しているから、母の中では僕は頼りない幼稚園児のままなのだろう。
もし僕が、国民的スターとか、有名な芸能人とか、有名な活動者だったら。
こんな欠点も『かわいい』と受け入れてくれるのだろうか。
もし僕がもっと恵まれた容姿ともっと優れた頭脳と技能とユーモアとその他もろもろ、他人に一目置かれるような飛びぬけた要素が一つでもあれば。あわよくば全て持っていれば。
無抵抗に他人に操られることなく、「普通」の自分を貫けたのだろうか。
普通に生きてみたかった。
部活だってやりたかった。仲間と一緒に身を削りたかった。
でも、僕は、勉強時間を減らすような行為は全てが悪だと教わってきたから、ギスギスした今にも壊れそうな家族関係を繋ぎ止めるために、他でもない、僕と世間が信じて疑わない「普通」―仲睦まじい家族― に少しでも近づくようにと身も心も使い古した紙やすりのように摩耗させた。貴重な児童期・思春期をどうにもならない家族関係に捧げてしまった。
本当に死にたい。
世の中のためには、 僕は死ななければならない。
こういうのを「希死念慮」と言うらしい。
家族も学校も勉強も人間関係も上手くいかない。居場所がない。頑張れる気がしない。だから死にたい。
こういうのは「自殺願望」と言うらしい。
これら二つの違いは、明確な理由がないかあるかみたいだ。
僕にはどちらの観念もある。
よく引き金となるのは、怒られた、自分以外の人に対しての厳しい意見に触れた、体調不良、の三つだ。
最初の二つに関しては、必要以上に自分に原因を求めて抱えきれない分が死にたい感情として溢れ出してしまう。
体調不良に関しては、僕としてはかなり苦しんでいるところで、体温調節を少し間違えるとすぐに風邪引きさんになってしまう。そして、PMSがきついとか、低気圧がきついとか、黄砂がきついとか、アレルギーがきついとか、最近だと眠れないとか、動悸がつらいとか、そんなことでは気分がよい時などない。
つまり、ずっと死にたい。
死にたいと思っているときは死にたいとしか考えられない。
これはもはや病気だ。
色々あったので、一応精神科に通院している。
そこでは、『頭がちゃんと働いているようだからうつではない』と言われた。
認知症の人でも、他人と話すときはシャキッと何事もないように話すことがあるらしい。僕もそんな感じだと思う。
ちょっと思い通りにいかないだけですぐに死にたくなる。
一度死にたくなると、一定時間はずっと死にたいとしか思えなくなる。
何を見ても何を聞いても、死にたい感情を加速させる下り斜面にしかならない。
段々と強がることもできなくなる。
僕が本当に動けなくなるまで、自分を追い詰める癖は終わらない。
誰とも話せなくなるまで。何も読めなくなるまで。何も聞けなくなるまで。うつになるまで。命が終わるまで。
その恐怖で、また今も死にたくなる。
とりあえず、夜も更けてきたので寝ようと思います。
さよなら、今日の自分。
Special Thanks
ここまで読んでくださった皆様