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『楽聖小説集 ベートーヴェン・フィクションズ』(小説同人誌)試し読み


かげはら史帆の自作による同人誌『楽聖小説集 ベートーヴェン・フィクションズ』の収録作全作の試し読みページです。

『楽聖小説集 ベートーヴェン・フィクションズ』の概要はこちらをご覧ください。


『ベートーヴェン家の父』

 つまりは、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェのところに息子を弟子入りさせたのが間違いだったのだ。たしかに息子の鍵盤楽器の腕は大いに磨かれた。雑誌に提灯記事を書いてもらったおかげで「神童」だの「第二のモーツァルト」だのという称号は、父親ひとりの誇大な妄想ではなく公然の事実となった。ヨーロッパじゅうの宮廷をドサ回りするほどの力量はなかったにせよ、一楽士としてぶじ地元の宮廷に就職することはできた。だが、その代償ときたらどうだ。きょうも息子は出かけていく。扉の前に転がった空の酒瓶を、なんの遠慮もなく爪先で押しやって。
「仕事か」
 声を掛けなければ、俺の方なぞ見向きもしない。昨晩から居間のテーブルに突っ伏したきりの俺のことなぞ。
「いや。ネーフェ先生のところ」
「おまえ、まだ奴からレッスンを受けているのか?」
「そうじゃないけど……」
「わかった。マダム・コッホの店に行く気だな」

『モーツァルトの再来──二つの掌編/一八二三年』

 作曲のレッスンが始まっても、男はフランツ・リスト少年のそばを離れようとしなかった。
 いつもはこうではない。私に少年を託すと、近所の貴族の邸宅を二、三ほど回って、ピアノのレッスンをこなして戻ってくる。その間にこちらは、通奏低音の一課程をおおむね教え終えている。「本当は、私も聴講したいのですが……」いつも別れ際にそう言ってくれるので、私もにこやかに「こちらも同じですよ」と答える。
「何なら、あなたの弟子になりたいくらいです。鍵盤楽器の稽古は老化を防ぐといいますからな」
 これまで半年近く、それでうまくいっていたはずだった。
 少なくとも、私自身はそう信じていた。
 
 少年は、削りたての長い鉛筆をぎゅっと握りしめて、五線譜の上で悪戦苦闘している。ちょっと行き詰まると、かんしゃくを起こして脚をばたつかせたり、鉛筆を投げ捨ててしまうのが常だ。最近の子どもは忍耐力がないな。あるときそう言うと、私がピアノを教えるときもこんな感じです、と男は返した。
「負けず嫌いで。天才とはそういうものです」

『モーツァルトの再来──二つの掌編/一七九三-九五年』

 カール・フォン・リヒノフスキー侯爵はたいそう親切だった。もっとも思い返せば、これまで自分に優しくなかった貴族なんてひとりもいない。故郷のボンでも、このウィーンでも。ひょっとして、俺は恵まれているのだろうか。そうなのかもしれないが、信じたくない。現実は不満だらけだ。
 こんな部屋になんか、もういてやるものか。
「だって君、屋根裏部屋で生まれたって聞いたもんだからさ」侯爵はそう言って肩をすくめた。「誤解だったか。てっきり屋根裏が好きなのかと思って」
「ちっとも好きじゃないです」
「でも、星がきれいだろう」
「鼠の足音がうるさい」
 そうか。ごめん、ごめん。こともなげに彼は言った。
「じゃ、もっといい部屋、用意してあげるからさ」
 
 何度かそんな攻防を繰り返して、最終的にあてがわれたのは建物の二階の一室だった。リヒノフスキー侯爵一家のメインの居室があるフロアだ。よもや北の端っこにある、かび臭い使用人部屋に押し込めようってのか。

『大食漢ホルツの朝食』

 会話帳……?
 何だい、それは? 
 
 ああ、そうか。
 あんた。ひょっとして、例の「アレ」のこと言ってる?
 
 まったく、罪深い話だよ。
 愚痴りたくはないけどさ。心底まいっちゃうね。
 運命だの、テンペストだの、いろんな曲に勝手に命名するのはさておきとしても。「会話帳」ってのは流石にいただけないかな。だって、どうしたって、口にするたびに考えちゃうじゃないか。「いや待て、この紙の上に残されている一方通行のコミュニケーションは、果たして会話なぞと呼べるものなのだろうか」とかさ。勘弁してほしいよね。
 
 え? じゃあ、おまえはそのノートをなんて呼んでたかって? そりゃ、決まってるだろ。「ノート」さ。ただ単にね。場合によっちゃ、「紙っきれ」だの「そこの書くやつ」だの、そんな風にぞんざいに呼ぶこともあったかな。実際、本屋で売っているような、綺麗に端が切り揃えられたノートじゃなくて、そこいらに転がった紙を集めて紐で束ねたようなのも使ってたからね。

『アントン・シンドラーと妹』

 古い男物の旅行鞄をひとつ下げて玄関扉の前に立っていたわたしを見て、兄は明らかにうろたえていたが、なにひとつ事の仔細を尋ねようとはしなかった。几帳面な手つきでベッドの木枠を拭き、シーツをはがして取り替え、自分の寝床を空けてくれた。遠慮したところでうわべの取りつくろいにしかならないことは、当のわたしが一番よくわかっていた。
「ごめんなさい。すぐに働き口を見つけるから」
「歌手になりたいんじゃないのか」
「なりたいけど」わたしは床の小さな傷跡に目を落とした。「すぐには難しいでしょうし、お金を入れないと悪いから……」
「そう慌てなくてもいい。ウィーンの家賃は高い。それに、女がまともな職を探すのは大変だ」
 兄の言うまともな職とはどんな仕事なのだろう、とわたしはぼんやり考えた。
「兄さんはいま、何の仕事をしているの?」
「この家の裏にあるヨーゼフシュタット劇場で、ヴァイオリンを弾いている」
「すごい!」
 心からの感嘆のつもりだったが、兄はなぜかきまり悪そうに顔を伏せた。

『ドクトア・ヴェーゲラーへの追伸』

 親愛なるドクトア・ヴェーゲラー。いつにもまして長ったらしい手紙を、最後まで読んでくれてありがとう。なにしろベートーヴェンにまつわる思い出話ときたら、即興演奏さながら次から次へと降ってわいてくるので、ついあれこれと書き足してしまった。ほんの少しはお役に立てただろうか。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの思い出を書き残すという仕事にぼくを誘ってくれて、心から感謝している。タイトルは『伝記的覚書』だっけ。妻も父も子どもたちも、出版を心から喜んでくれるだろう。だからどうか、本文より長ったらしいこの追伸を読んで、悔やんだり自分を責めたりしないでほしい。いまとなっては、ただそれだけがぼくの願いだ。
 あなたは、ラインラントきっての優秀な医師で、科学の人だ。ベートーヴェンの耳の、うねりを経て闇に向かう長く暗い穴を、無だの恐怖だの運命だのではなく、ただの病んだ肉の裂け目として冷静に観察できる人だ。だからこそ、詩に指をおどらされ、思想に歌をうたわされ、感情に喉をくるわされるのを生業とする、ぼくやベートーヴェンのような音楽家は、あなたを必要不可欠な友とし、これまでさまざまな秘密の話を打ち明けてきた。


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