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吉祥寺サンロードの途中で自分の解体ショーが開催されている件について(選書をしました)

 お話をいただいたときには、たいへんビビった。

 よほど名前のある人でなければ、ファンが何万人もいるような人でなければ、書店の一角で解体ショーを開催する意味がない気がしたからだ。

 いいんですか? とおそるおそるきいた。いいんですよ、というあっさりとした優しいお返事が来た。プロの書店員さんがいいといっているのだ。よくわからないけど、いいのだろう。おもえばこの筆名をぎこちなく使い始めてから、恐縮するほど分不相応な依頼はいっぱい来たけれど、明らかにトンチンカンな依頼が来たことはただの一度もない。「相手」は、自分よりもよくわかっているのだ。たいがいにおいて。

 それなら、やっちゃいますよ。脱ぎますよ。まな板の上でプルプルしますよ。自分で自分をぶった切って切り身を差し出しますよ。しらないぞ。

 というわけでこうなりました。はい。

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  ひえーーっ。

吉祥寺 ブックスルーエ
かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』刊行記念 ベートーヴェン生誕250年 かげはら史帆が選ぶベートーヴェン関連書&『ベートーヴェン捏造』と『ベートーヴェンの愛弟子』をつくった15冊


本年は楽聖ベートーヴェン生誕250年記念イヤーです。
相次ぎ刊行される関連書の中でも一際ユニークかつ、愛にあふれているのが、かげはら史帆さんの『ベートーヴェンの愛弟子』です。
戦乱渦巻く激動期のヨーロッパをシブとく生きた音楽家フェルディナント・リースの評伝です。

ベートーヴェンの回想録の著者としてしか光が当てられることのなかった人物を、丹念に史実を掘り起こして、魅力的に描き出します。
それにより師であるベートーヴェンの実像をも部分的に刷新しているように感じます。
ライターとして活躍されるかげはらさんに、ベートーヴェン関連書を選んでいただきました。伴わせてかげはらさんが二冊の著書を書き上げるうえでのルーツとなった本を紹介いたします。ご期待ください。

 わたしは自分が読書家なんてとうてい思っていない。けれど、本を選んで公表するのは、自分を丸裸にして身を削いで並べる行為にひとしいという感覚はある。

 そしてその行為は、今まで書いた2冊の本のたいへん身も蓋もないネタバレでもある。資料としてダイレクトに参照したのであればもちろん巻末の文献リストに書名を記してある。けれどそうでなければ書かない。そして、実は後者のほうがよほど自分の内臓に近い部位だったりもする。

 この本なんか、もはやわたしの心臓である。わたしの心臓に価値があるかどうかはさておいて、とにかく心臓である。18世紀後半から19世紀初頭という時代への憧れと、伝記というスタイルへの憧れがダブルで詰まりまくっている。かくありたい。たとえ100分の1でも。

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 それにしても内臓を公表するのは、だいぶ、こわい。

 先日、インターネットラジオのOTTAVAにゲスト出演させていただき、ピアノ協奏曲の話をした。「有名音楽家」の作品史だけを見ていると、ショパンのピアノ協奏曲って1830年ごろにいきなりオリジナリティにあふれまくった超斬新なスタイルがバーーーンと現れたみたいに見えがちですけど、実はフンメルとかフィールドとかリースとか、そういう先輩が1810~20年代に紡いできたスタイルの延長にあるんですよ、もちろんショパン自体のオリジナリティもあるけど、まさかアレをぜんぶハタチくらいの青年が作りあげたわけが無いですよ、とかそういう話だ。
 こわさというのはつまりそういうことである。どんな作品においても元ネタなんて死ぬほどあるし、知っちゃえば「なーんだ」って感じなのだ。いや死ぬほど数があるならまだいいけど、わたしは怠けものだし吸収力が低いしインプットも中途半端なので、死ぬほどはないのだ。たぶん、ほんのちょっとの元ネタでだいたい説明できてしまう。

 こわい。めっちゃこわい。

 それでも今回、選書してみたいなと思ったのは、もっとちゃんといろいろな本をインプットして元ネタを増やさなきゃと最近あらためて感じているからだ。これらの本を選んだのは2020年現在のわたしであって、将来の自分が同じ本を選ぶとは限らない。そうだよな? そんな自分へのプレッシャーもこめてセレクトをさせていただいた。もし何年か後に、ありがたくも同じようなテーマでの選書の機会をいただいて、また代わりばえのしない棚ができあがったら、こいつ怠けおったなと思ってください。

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※写真の撮影許可はいただいております。

★この場をお借りして、当フェアを企画してくださった花本武さんに心から御礼を申し上げます。