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短編小説『ドクトア・ヴェーゲラーへの追伸』通販開始

2019年秋の文学フリマ東京で頒布した短編小説『ドクトア・ヴェーゲラーへの追伸』の通販をBOOTHで開始しました。

粉雪の舞う1837年、パリ。流行病に倒れたフェルディナント・リースのもとを訪ねてきたのは、死んだはずの師ベートーヴェンだった……?
師弟共通の友人ドクトア・ヴェーゲラーに宛てて綴られる「追伸」の真意とは。オリジナル短編小説。A6/48P

以下、冒頭部分を掲載します。

短編小説『ドクトア・ヴェーゲラーへの追伸』(冒頭部分)


 追伸

 親愛なるドクトア・ヴェーゲラー。いつにもまして長ったらしい手紙を、最後まで読んでくれてありがとう。なにしろ、ベートーヴェンにまつわる思い出話ときたら、即興演奏さながら次から次へと降ってわいてくるので、ついあれこれと書き足してしまった。ほんの少しは、お役に立てただろうか。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの思い出を書き残すという仕事にぼくを誘ってくれて、心から感謝している。タイトルは『伝記的覚書』だっけ。妻も父も子どもたちも、出版を心から喜んでくれるだろう。だからどうか、本文より長ったらしいこの追伸を読んで、悔やんだり、自分を責めたりしないでほしい。いまとなっては、ただ、それだけがぼくの願いだ。

 あなたは、ラインラントきっての優秀な医師で、科学の人だ。ベートーヴェンの耳の、うねりを経て闇に向かう長く暗い穴を、無だの恐怖だの運命だのではなく、ただの病んだ肉の裂け目として、冷静に観察できる人だ。だからこそ、詩に指をおどらされ、思想に歌をうたわされ、感情に喉をくるわされるのを生業とする、ぼくやベートーヴェンのような音楽家は、あなたを必要不可欠な友とし、これまで、さまざまな秘密の話を打ち明けてきた。

 これから書こうとしているのも、そうした、音楽家特有の絵空事のようなものだ。たとえ話と思ってくれてかまわない。創作と思ってくれても一向にかまわない。ただ、ぼくの舌にだまされてやるつもりで、少しだけ想像をめぐらせてみてほしい。実をいうと、この手紙の本文に、ぼくは大きな嘘を書き足した。腹が痛いやら、死ぬかと思ったやら、ひとくさり綴ったあれはぜんぶ作り話だ。ぼくはいまのところぴんぴんしてるし、ベッドの上じゃなくて、仕事部屋の机の上でこの追伸を書いてるんだからね。

 それと、もうひとつ。
 重大な告白をしなきゃならない。
 いま、時刻は二時近く。妻も子どもたちも、一足早く夢の中だ。

 だけど、この部屋にいるのはぼくひとりじゃない。
 
       ***

「ヴェーゲラー、俺を許してくれ……」

 声の主はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。ついさっきまで、そんなうわごとを言いながら、背中を丸めてべそべそと泣いていた。いまはというと、すっかり気を取り直して、長椅子に寝そべり、新作オラトリオのトロンボーン・パートを書き綴っている。そう、まるで、ぼくが朝五時にあくびをしながら彼の家を訪ねていったら、ベッドの中で『オリーブ山のキリスト』の楽譜を書いていた、あの『伝記的覚書』のワンシーンのように。違うのは、いまが真夜中で、ここがウィーンじゃなくてフランクフルトのぼくの家だということだ。せっかくさっき片付けたばかりなのに、丸めた紙くずやら、鉛筆の削りかすやらで、平然と弟子の部屋を汚すのは勘弁してほしい。ただでさえ最近のぼくは、青春の思い出にかまけて生活がだらしなくなっていると、年頃の娘ふたりから散々からかわれている始末なのに。

 ──勘弁してほしいのは私だよ、フェルディナント。たしかに私はジークブルクに精神病院を創設したとも。だが、それはきみの名前をカルテに書くためじゃないよ。

 ああ、あなたの優しいたしなめの声が、いまにも聞こえてきそうだ。だけど、願わくば、ぼくがラインガウのワインでしこたま酔っ払っているとでも思って(それは事実なんだけど)、しばらくこの戯れ言につきあってやってほしい。

 ──ほほう、そうか、なるほど。我らがベートーヴェンが、天国から、愛弟子であるきみをひょっこり訪ねてきてくれたというわけだな! そりゃ、うれしかろうね。で、それは、今日がはじめてなのかい?

 慈悲に満ちた棒読みのセリフをありがとう、ヴェーゲラー。だけど、答えは否、だ。ずっと黙っていて悪かった。実をいうと、彼がぼくの目の前にはじめて現れたのはもう九ヶ月も前。まだパリに滞在していた時だ。同地とロンドンとを弾丸往復するハードな仕事を終えて、そろそろピカピカの凱旋門ともおさらばしようという直前。ぼくは流行のインフルエンザに罹ってしまった。ひどい高熱を出して、ベッドの上でうんうんうなされながら、ぼくはみじめな足止めを嘆いていた。一日も早く、アーヘンに行って、オラトリオを仕込まなきゃならないのに。オーケストラはどうなる。合唱はどうなる。ソリストはどうなる。ぼくがディレクターを降板したら、シンドラーとかいうあのろくでなしに指揮を任せなきゃならなくなる。それだけは勘弁だ! 
 妻からの報を受けて、心配したマイヤベーアが、えらくめかしこんだユダヤ人の医者を次から次へと呼んでくれたけど、ちっとも快方に向かう気配がない。窓枠につもる粉雪を恨めしげに眺めていたのも数日で、そのうち昼と夜もわからなくなり、ひたすら頭を枕に突っ込んで、煮えた脳味噌のなかでフィナーレのフーガをぐるぐるかき回していた。そんな時だよ。どこからともなく、ふっと、男の声が響いたんだ。もう十年……いや、かれこれ三十年近く、耳にしていない声だ。

「おまえ、そんなにアーヘンに行きたいか?」

 ぼくは飛び起きた。そして息を呑んだ。
 ベートーヴェンが、ベッドの足元のあたりに腰かけて、こちらをじっと睨みつけていた。


(続きは本にて)


(本作の主人公、フェルディナント・リースにご興味を持った方へ。2020年4月下旬予定で『ベートーヴェンの愛弟子 - フェルディナント・リースの数奇なる運命』が刊行されます。こちらも是非!)