ナマの感情と向き合う
わたしはナマ(生)の感情と向き合うのを避けた人間である。
わたしは小学校と中学校のメンバーがほぼ同じところで育った。そういう環境でそのときを生きた。
小さい頃、まだ無垢も無垢の頃から知り合ったメンバー。
ただの知り合いレベルでもそういう時代をやんわりと知っている人達。
子供らしく、みんな純粋で素直で良いやつだった。良いやつが多かった気がする。わたしの学年は仲が良かった。
そんな中でわたしは小学校高学年のときはとても外交的だった。色んな人と仲良くし、交流した。
わたしは擬似的な性善説のようなものを無意識に信じていた。
『人々はお互いをリスペクトしていて、尊敬していて、そういうものでこの世界は出来ている。』かいつまむとそんな感じだった。
どんなことにも理由がある。話し合いを、交流を尽くせば異なる意見を持っていてもきっと分かり合える。そう思っていたから、ある意味性善説のようなものを信じていたからこそ交流にするのに年齢も性別も関係なく躊躇もなかった。小学校高学年のときはわたしの人生の中で未だに輝きを放っている時代だ。
が、それも中学1年生、2年生と進むにつれて陰りを見せる。
わたしはナマ(生)の感情と向き合うのを避けた人間である。
ナマの感情とは、例えば激しい悲しみ、激しい怒り、激しい嫉妬、激しい憎しみのような感情である。上手く形容出来ないものもある。
わたしもわたしの周りも思春期と反抗期を迎えた。
わたしはニキビができ、いつも遊んでいた公園が潰れ、勉強が上手くいかずわからず学校生活に余裕がなくなっていった。自分の中で悩み事やモヤモヤ、劣等感が増えた。上手くいかない自分への自己嫌悪も生まれた。
わたしの周りは、今思えば変わったやつもいればそのままのやつもいた。
けど、思春期のわたしには『何かあったときに暴力的に出るやつ(直接暴力に走ったり物にあたったり暴力的な発言)』や『タバコを吸ったり非行に走るやつ』は大きく見えた。めちゃくちゃ動揺したけどそれに介入することも止めることもなだめることも出来なかった。しなかった。正直怖かったしなんだか恐れていた。
そのときからわたしは人のナマ(生)の感情と向き合うのをやめている。
避けている。
だからわたしには本当の意味で友達は居ないし親友の存在を望んだって出来るわけがない。恋人もそうだ。
なぜならば腹を割って話すことが出来ないからだ。
1番根っこのところをわたしは隠しているわけだ。
わたしは、自分の中の醜い部分に蓋をしている。激情もそう人には見せない。
配信であるとき『怒らないよね』『冷たいよね』と言われた。
わたしは淡白?なのかな。これでは人に興味がないと思われても仕方ない。
その正体は13、14歳になるくらいからずっと人のナマの感情を避け続けている。わたしがそれを相手に見せないから。だからずっと腹の中の自分がちょっとでも黒いかなと思う部分は見せないし見せられない。腹を割って話せない。自分がこんな調子だから相手の醜いところを許容出来ない。
誰よりも優しくありたいと思いながら人間の本当のナマの部分には触れない。本当の人間に触れない。
それは優しさなのか?
違う。
わたしが臆病なだけ。
わたしが頼りなくて不甲斐ないから逃げ続けているだけ。
いや、逆か。
逃げているから頼りなくて不甲斐ないのか。
まぁどっちでもいい。どちらにせよそのような事実は変わらない。変わらないから。
わたしは配信で『頼りない』と言われる。そういう彼らはわたしのそういう部分をわかっているんだろう。
たまに『頼りになる』と言われることもあるが、きっといつか見透かされる。そうでなくても寄りかかった先が透け透けだったりどこかに行ってしまったら。その人はどう思う?
あると思って信じたものが、なかった。ただの幻想だった。それは裏切りではないだろうか?
わたしはナマ(生)の感情と向き合うのを避けた人間である。
避け続けた人間である。
何故わたしに真の友達が出来ないかわかった気がした。
出会いがない?きっかけがない?
違う。そんなんじゃない。
"わたしが逃げてるから"だ。
わたしが"臆病"だからだ。
せっかくのその機会も全てそうやって潰している。
そうやってなぁなぁで過ごしていつかまた別れがくる。『逃げ続けている限りそこから抜け出すことはできない。』こち亀の大原部長の言葉だ。
そして自分には友が居ないと1人寂しがる。は、わたしってば自分勝手だなぁ。
ずっと二次元に逃げてきた。
2次元はわたしを救ってくれた。その事実に違いはない。
理想と現実とのギャップにわたしの足元のその全てが崩れ去ろうとしていたときも、二次元によって、脳内補正によって夢想することで生きながらえた。
だがそれは同時に逃げてきた歴史でもある。
学校に通いながらも過酷な現実からはどこか逃げていて、いや。"人生は過酷なんだ"とどこか決めつけ、周りに人もいるのに助けも呼ばず本当は本心では拒絶した?
自分は自分の人生の主役と信じながら勝手に舞台に1人だけと思い込んだ。
苦難・困難を1人で乗り越えねばいけないのだと。
全ての苦難は己ひとつで乗り越えなきゃって、勝手にどこか決めていたのかもしれない。確かにわたしは自分には無限の可能性があると思っていたし、それを最後まで信じたかったからこそそれにすがってただ1人自爆したのだった。そうやってわたしは1人で粉々になって玉砕し、ひきこもりになったのだった。
そして勝手に人が信じられなくなり、人が嫌いになり、全てを断絶した。
身勝手なやつやでほんまに。
わたしはナマ(生)の感情と向き合うのを避けた人間である。
わたしは…
…答えはまだ、正直出ない。