労働意欲と言う言葉は労働に対して不満や嫌な要素が6割程度(人によっては7割程度)までの人に有効
これ。
私が相談に乗ってもらったときに、「働けばお金がもらえる(稼げる)」そのお金で自分の好きなものや趣味に使える、エンジョイできる
= これが労働意欲になるのではないか、
働く理由になるのではないか、
などと言う話をされたことがある。
この理屈は理解できる。資本主義のあり方として、市場の仕組みとしてわかる気がする。
だが、この"労働意欲"、と言うことに関してだが、これは労働に対する各人の認識がどの程度のものかと言うことにも大きく関係してくると思う
例えば労働に対して何か意義や意味や、やりがいや楽しさを感じているのかだとか、
あるいは労働に対して、
自分の人生をただ浪費するだけの、拘束されるだけの、疲労感が溜まるだけの、あるいは屈辱的なだけの、そんなネガティブがいっぱい詰まったような時間だと捉えているとしたら、これは労働のその先にある対価に対して、その労働時間が自分にとってどの程度プラスに働くのかマイナスに働くのか、この部分を勘定する必要がある
ニートとは、すなわちこの"勘定"のところでネガティブ、つまり自分にとってマイナスだと捉えているから働く気が起きないのだとわたしは思っている
労働意欲とはすなわち、その先にある対価を鑑みてその労働をするかどうかに対する意欲と言うことだ。
あるいはその労働そのものに対して何を見出しているか。
その労働そのものに意欲を見出せるかどうか。
"労働"そのもの自体にプラスの何かを見出せているのなら、その労働の時間そのものがその者の中で肯定的に捉えられていると言うことだ。つまり有意義なのである。
で、その先にある労働対価であるお金は自由に使い道を決定できるわけだし、お金を入手することができれば、お金が無いと言う状態ではできなかった選択肢、お金をどう使うかと言う選択肢を自分で決定して選ぶことができる
タイトルのそれは何か統計学的なものではなく、あくまで私本人の感覚的なものなのだが、労働に対して、あるいは労働時間に対して、嫌な思いや不満が自分がその事柄に取り組むときの全体の6割(人によっては7割)くらいまでならば、その労働に対して十分な労働対価(賃金)が払われているのなら、わたしならば何とか我慢できるかもしれない。
とは言え、精神衛生上良くないし、これはあくまで短期間(2ヶ月程度)であれば成し遂げられるかなぁと言ったような私の精神的勘定である
でも、一般にストライキやデモは(※自分の労働に対する待遇や権利を守るためのデモやスト)不満が3割程度でも十分やってもいいような気がする。
そもそも労働契約とは、フェアであると言う風な建て付けなはずだ
フェアな契約な以上、互いの利益や権利はお互いフェアに守られなければならない。
よって3割(およそ全体の3分の1)程度の不満でも充分不服としてデモやストライキを行ってもいいような気がする。
なんというか、今の日本は労働搾取が酷すぎる気がする。
そうは思わない人が多数なのかもしれない。
なぜそう考えるかと言うと、もし労働搾取が酷いと思っている人が多数だった場合(国民の過半数以上、大半だった場合)もっとデモやストライキが表面化して、各地で当たり前の日常風景のように見られてもおかしくないと思うからだ
当然デモやストライキは待遇改善や自分たちの地位や権利を守ったり求めたりするだから、これによって待遇が改善されればデモやストライキは終わり(目的は達成され)日常風景としては見られなくなるだろう
だから日常風景的にデモやストライキが見られないからといって、そもそもデモやストライキがなかったと言うわけではない。
だが私が思うに、昨今デモやストライキはほぼほぼ見るような機会は無い。
メディアが報道しないから知る由もないと言うのはあるが、それにしても街中を歩いて見てもそういったものは全くと言っていいほど見かけない。
じゃあみんな自分たちの労働条件や待遇に満足いっているのかと言うと、あるいは不満がないのかと言うとわたしはそうとは思えない
と言うのも、日本人の年収の中央値は(全体で最も多くを占める値は)30年前と比べて100万円以上落ちている。
実質賃金と言う言葉もあるが、国民は各々が稼いだお金を単純に全てを売り買いに使えるわけではない
消費税だとか保険料のように、自分に拒否権がなく、負担しなければならないものがある。(お金)
だから年収何百万と言う数字だけでは一喜一憂できず、この国民の負担するお金の部分も考えて、"実質的に所得が増えたのか"と言うことも考えなければならないわけだ
この負担と言うものも、30年前に比べて大きく増えている。
消費税で言えば3%から10%に、国民保険料は倍近いらしい
人は生きていく上で食べ物や着るもの、住む場所、これらは必須のものである。
食物が生きるのに必須なのは言うまでもないが、着るものや住む場所に関しても、これがなければ生きるのが相当難しくなる。
これらは、今や、市場で買うことになっている。
つまりその値段、物価と言うものによって、"生きていく上に必要最低限のお金"と言うものが初めて算出できるようになる
つまり所得云々と言う話には、その当時の物価と言うものも当然考慮されなければならないと言うわけだ
30年前の物価はピンポイントでは知らないが、ここ数年においては確実に主に食品などの物価は上がっている。
と言うのもそれは当然で、日本は今とても食料自給率が低い。
食料自給率と言うのは、ざっくり言うと自分の国の国民が自分の国で作る食べ物でどれぐらい賄えるか、と言うような話だ
日本はそもそも土地に対して人が過密と聞いたことがあるが、第二次世界大戦以降、アメリカから小麦などを輸出され、日本食が主流だった食文化が貿易自由化によって一気に外食文化が増えた。
今では食べ物の多くを輸入品に頼っており、輸入品である以上、円高円安の影響を受けるようになった
で、現在円安130円から150円である。
"円(日本円)が安い"と言う事は、簡単に言ってしまえば、世界の通貨の価値からすれば日本の通貨の価値が低くなっていると言う状況である。
物々交換で、より価値が高いと考えられるものが、価値が高いものやより多くのものと交換できるように、円安と言うのはその逆で、円の価値が低いもんだから、相対的に外国のものを買おうとするとより多くの出費をしなければいけない事は仕方がないことである
このようにして、円安の影響受けて海外から輸入しているもののほとんどは、基本的に物価(商品の値段)が上昇している。
これを買い物するときに支払う金額が大きくなると言うことだ。
これらによって、今庶民は厳しい現実にさらされているはずだ。
円安は自然災害ではない。
市場によってもたらされたもので、どちらかと言えば人災である。
国際的に見て、『日本の成長率は微妙だな』『日本はこの先、先行き不安だな』
こういう風に日本の未来は今、不安視されているのだ。
そういった不安から日本円が売られているのだ
労働意欲と言うふうな話から随分と話がそれてしまったが、結局のところ今の政府や社会と言うものは、本当に苦しいところでギリギリでがんばっている人たちに対して非常に冷たい。
『自己責任論』だとか、臭い物には蓋をするなどして見て見ぬふりだとかガン無視をずっときめこんでいる。
そうやって社会や集団がピンチになったときに、弱者切り捨てや、支配階級層の自己中心的な改革(利権守り)を続けたことによって、それぞれが他人を極め、おかしな金の流れが出来上がり市場に還元されず、こんな落ちぶれた国になっている。
私はその冷遇の只中にいるわけだが、そうやって同じ国の、運命共同体であるはずなのに、同じ社会・集団を形成する一員であるはずなのに、弱者を切り捨て支配階級層の都合の良いように自己中心的な改革(利権守り)ばかりを行うエゴに満ちた集団が最終的に自滅か破滅を迎えるのは、さして当然、当たり前のことである。
我々は個々に意思を持っていて、自我を持っている。
それらが70何億の、まるで人間を構成する細胞のように(※いや日本人は1億何千人てレベルだし、そんなにいっぱいはいないけどw)1つ、この日本列島に集まって日本人としてこの日本と言う社会、組織、国を形成している。
凄まじい巨大な集団であるが、さっきも言ったようにそれぞれに自我があるのだ。
これらが、1部の人間の思惑によってこの巨大な集団の利益を独り占めしようとしたり、多数決と言う安直な方法で少数派や弱者を居ないもの同然とし、弱者切り捨て、のけ者にしようものならば、この巨大な集団がいつか自壊すると言う事は火を見るよりも明らか。
ない者として扱われる者の悲しみの深さは、きっと何よりも深い。
私たちは、この資本主義と言う中で、確かに様々な恩恵を授かっている。
しかしこの恩恵と叡智には、様々な、本当に数え切れないほどの人たちの力が合わさってこの社会が形成されていると言うことを忘れないでほしい。
それを思って、相手を想って、お互いが尊敬の念だとか、優しさや愛を持って接することができれば、きっと思いやれるはずだ。
1億人を超えるその莫大な人たちの一人ひとりの自我を思って、思いやると言う事はほぼ不可能に近いことなのかもしれない。
しかし私は、その決して届かないかもしれない想いが愛に満ちていると言うことを願わずにはいられない。
それが愛や優しさなのだと、それこそが人を動かす力なのだと信じたい。
社会や人間の冷たさを知って、今のわたしに正直労働意欲は少ない。
ないわけではないがめッッッッさ少ない。
デバフ ー50%は堅いだろう。
(いや。精神的苦痛を考慮すると ー80%くらいデバフ掛かってると見るべきか。)
まず、現状労働に対してあまりにも良く思っていない。もう滅茶苦茶ネガティブに考えている。
正直社会や人は信用ならないと思っている自分がいる時点で想像してほしい。
そのネガティブさ。疑っているものにわざわざ接近し、しかもまさかのそこに飛び込んで行かねばならない精神的苦痛。そのハードルの高高高さに。
労働意欲とはなんぞや。
ここまで語って置いて、とことん否定的なわたしがいる。