希望と絶望を逝ったり来たり
…なんかタイトル面白いから"逝ったり"なんて言葉を使ったw
……まあ、絶望するたんびに心が一旦死ぬ、すり減るって意味では、ある種"逝ったり"って表現はわたしからすれば適切なんだけど
これ。
…どっちも私が書いた記事。
これ書いたのはおよそ1ヵ月の間の中の話。
文中見ればわかるんだが、こんな感じで、私は別にただ普通に生きてるだけなんだが希望と絶望をいったり来たりする。
この間(かん)、当然だがエネルギーは凄まじく消耗している。
希望が無限のエネルギーをくれるように、対極にある絶望とは無限にエネルギーを奪っていく
そんな間(あいだ)も心は存在しているわけだから、そんな激しい運動すればその自由運動の中で心は単純に疲れる
希望と絶望をいったり来たりと言う話だが、
これはまぁ、単純に絶望に行ったきり、そのまま沈んでいけばやがて終わりが来るだけの話だから、結局のところ時間的経過によるわずかなリジェネ、希望を見つける、希望と出会う、希望的観測によって絶望の淵から蘇り、場合によってはその反動でか、生気に満ちた状態になっているだけのことである
いわゆる"命の実感"なのかもしれないが、絶望のたびに精神がすり減り疲れる、場合によっては疲れ果てることを考えると、そう嬉々とした話題ではない
私の人生はこの点、何も知らないハタから見れば伺い知ることも想像することもできないだろうが、波瀾万丈に満ちている。
別に誰かと比較する必要はない。
なぜならばお互い、お互いの人生の当事者になり変わることはできないからね
それを否定するのは、きっとナンセンスだ
この記事において紹介したかったのは、そういう私のいち側面。
…まぁ実際今さっきまで絶望していたわけだから、今の私は疲れているよ。
こういうときの回復方法は、毎回選択肢があるわけではないから(無い事もザラだから)困らされるね