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サイババのいた1996年
到達前
1996年1月に私は日本を出国し、2度目の長期の旅を始めた。3月にはネパールでアンナプルナ一周トレッキング、5月〜6月にはチベットのカイラス山へのヒッチハイクなど、念願が叶って充実した旅をしていた。
8月からは南インドを一周する予定でカルカッタを出発した。ところが、最初の宿泊地のプリーでいきなり42泊という大沈没をやらかしてしまった。
プリーは有名な沈没地で、サンタナロッジという、これまた有名な安宿があり、日本人の心を溶かすようなサービスに甘えてしまった。それまでのアクティブな旅に疲れを感じてきた時期でもあったので、旅の骨休めとしては最適だった。
プリーの次はマドラス(現チェンナイ)を目指した。マドラスにある日本総領事館で日本からの手紙を受取るのが目的だったのだが、残念ながら手紙は届いておらず、失意のマドラスで今後の予定を考えた。
候補は2つある。そこからさらに南に向かってマドゥライに行くか、サイババのいるプッタパルティかのどちらかだ。
この時点で私はかなり迷っていた。当時サイババは日本でも有名な存在であり、私は興味をもっていた。しかし私の旅は決してスピリチュアルなものではなく、安宿で無為に過ごしていた私の姿は、日本の世間では到底受け入れられない、アウトローな底辺バックパッカーそのものであった。
そんな私が世界中から信者を集めているというサイババのところに行って、一体何が生まれるというのだろう。私にとって、そこに行く価値が果たしてあるのか。
私は一晩悩んだ結果、プッタパルティではなく、マドゥライに行くことに決めた。私はあくまで旅人であり、サイババを見に行く資格など無いと熟慮した結果である。
決意を固めた翌朝、朝食の為に外出しようとした時だった。ホテルのカウンターでチェックインの手続きをしている人がいた。日本人に見えたので声を掛けてみたら、その人が今まさにプッタパルティから到着したばかりの日本人だった。私はびっくりした。
スマホの無い時代、ガイドブックにも書かれておらず、全く情報を得られなかったプッタパルティへの行き方、アシュラム(道場)での暮らし方などを初めてその方から具体的に教わった私は、急遽予定を変更する事に決めた。また、その彼も私に行くことを勧めてくれた。
こういった逆方向からの急転直下な流れは、実は私には過去にもこの先にも起きていて、私の旅というか人生を劇的に魅せてくれるのである。
煩悶
彼から教わった通りプッタパルティに到着して、日本人グループの方に案内をしてもらい、問題なくアシュラムでの生活を始める事ができた。
私はドミトリー形式の大部屋をあてがわれた。インド人とは別で、私の同室者はほぼずっと欧米人男性だった。
生活に特に厳しいルールはなく、飲酒と喫煙は禁止されているだけで、自分の好きなように過ごすことができた。
しかしそこから、環境に慣れるまでの1週間ほど、私は疑問と煩悶に苛まれていた。
当然ながら、そこにいるのは日本人ばかりでなく、欧米人もインド人も皆、サイババの熱烈な信者である。ふらっとやってきた私のような旅行者などはまず見かけない。
彼らの言動は信仰心のない私からみると、免疫のないものであり、無知な私の自我からは自然と否定的な反応が湧いてきた。バックパッカーの私には、アシュラムに入った途端に世界観が突然変わりすぎて、心が拒絶反応を起こしはじめた。
日本人グループの方々はとても親切であり、そこでの生活のサポートもしてくれるし、サイババに関する書籍も借りられたので、読ませてもらった。私もそれなりに吸収する努力はしていた。しかし彼らはサイババの信者であり、そうではない私には「あちら側の人」の感覚が拭えない。
サイババは自らを全知全能の神だと表現している。太陽も月もサイババが創ったの?そんなアホな、と私は独り言を呟いていた。
ただ一つ、もらったパンフレットに書かれていた、このサイババの言葉が印象に残った。
「ここに滞在している間、どんな小さな経験も見逃さないように。全てが愛の注がれている事であり、偶然など無いのである。」
私はのんびり屋なので、プッタパルティの滞在には2週間位を目処として考えていた。しかしアシュラムの空気には馴染めなくて、予定より早く1週間で出発しようかと思った頃だった。
ある日の夢でサイババが出てきた。私がインド式食堂でおかわりを頼んだところ、大量のごはんを載せられた。あぁ、やっぱりおかわりは要らなかったと後悔して見上げると、給士がサイババであった。驚いてごはんをみると、注いでもらったごはんが消えていた。
この夢が何を意味するのかはよく分からなかったけど、私の中でサイババが夢で出てきたことはとても印象的だった。
笑顔と気づき
サイババと会うタイミングは、通常1日2回行われるダルシャンというイベントに参加する必要がある。
ダルシャンには毎回多くの人が数多くの行列を作るのだが、どの列がどの順番で入れるのかは抽選で決まる。だから、早くから並んだからといって、前の方で見られる保証はない。早くから並んでいれば、抽選の結果によって最前列で見られる可能性がある、というシステムであった。
早い人はダルシャンが始まる2時間前から行列に並んでいるのだが、私にはそんな熱意もなく、いつも締切時間ギリギリに行っては多くの人垣越しにサイババを眺めていた。
サイババの夢を見てから気持ちが軽くなった私は、早朝に気持ち良く目覚めたので、行列開始の午前5時に並んでみた。サイババを近くから見てみたいと思った。その時は運良く早めに入ることができ、ダルシャンで2列目の場所を確保できた。
サイババがいつも通りに歩いて近づいてきた。いつもと違うのは、私に熱意があるということだけだ。最接近したタイミングで私がサイババから感じたのは歓喜のオーラであった。気づいたら私は満面の笑顔になっており、意味は分からないけど、とても幸せな気持ちになったのである。
あれ、なんかおもしろくなってきたぞ。
その日から私は毎日2回、早めに並ぶことを続けた。そして戸惑いも感じながらも、日本人グループにも参加して積極的に吸収してみたいと思い始めた。
インタビュー
日本人グループに参加したのは、集団インタビューの時に一緒に別室でサイババと会えるチャンスがあるからだ。サイババは定期的に日本人グループをインタビューに呼んでくれて、運が良ければ個別にお話しをしてもらえる、と教えてもらったのだ。
プッタパルティに到着して12日後、グループに入って数日後に、そのインタビューが実現した。突然のことに私は戸惑いながらも、集団の後ろをついて行った。
別室には20人程の日本人が集まっていた。サイババは和やかな雰囲気で、英語で「いつまでここにいる?」と数人に質問したり、会話しながら指輪や布を物質化して信者に渡した。物質化現象はダルシャンの時に頻繁に目にするので、間近で見ても驚きは感じなかった。
すると突然、サイババは私の顔を見て「How are you ?」と言った。「I'm very glad to see you.」と私は心から返答したが、サイババの反応は意外なものだった。「Your Mentality is not good , like this」と言って、手で波形を表現した。
まさにそれ。私は好不調の波が大きくて、自分の日記帳にそれを波型で書いていた事もあった。あたかもそれを知っているかのようなサイババの表現だった。
「なら、どうしたら良いのでしょうか」と思った瞬間には、サイババの会話は既に他の人に移っていた。私は会えた喜びを伝えたかったのに、注意を受けた事にとても残念な気持ちになった。
インタビューの最後に、サイババは袋詰めされたビブーティ(聖灰)を一人一人に配り始めた。私はサイババの邪魔にならないよう、床に座っていた身を小さくした。その瞬間、サイババは手で私の頭に触れた。
私は突然、何か脳に衝撃を受けたように、頭がグラグラした。と同時に溢れ出る幸福を感じて、私は目を瞑り頭を下げた。するとサイババは私に何かを言って、左頬を軽く叩いた。
その瞬間、私は更なる幸福感で溺れそうになり、意識が飛びかけた。全ての感覚が痺れて、泣きそうになった。
情けないことに、その時の記憶が当時からハッキリしない。言ってもらった一言も覚えてられなかった。何が起きたのかもよく分からない。ただ明確なのはサイババが私を祝福してくださり、それが私の人生の大事件となったのである。
インタビューの後
その日は訳のわからない幸福感と高揚感で胸がいっぱいになり、食事をする気にもならなかった。
翌日、インタビューで近くにいた人に、サイババが私に何と言ったのか分からないかと聞いたけど、誰も分からなかった。ただ私は「good boy」と言われようだと、そう日記には記してある。
最近になって、私はサイババを有名にした青山圭秀さんの著書『理性のゆらぎ』を読み返す機会があった。青山さんはサイババとの初対面で「nice boy」と言われいる。言葉だけをみると、とても近い表現だと思った。
また私はインタビューの時に、サイババから言葉ではないメッセージを受け取っていた。それは、「あなたは旅人であり、ここで他の信者と一緒に活動する人ではない。だから旅を続けなさい」というものだ。
しかし私は祝福していただいた感激から、インタビュー後も10日間滞在して、余韻に浸っていた。
旅の再開
ようやく重い腰を上げた私は、それからインド最南端を目指してプッタパルティを出た。
マドゥライ、カニャクマリ、コバラムビーチなど、南インドの名所を回って旅を再開したのだが、困った事に私は旅を楽しめなかった。
それはサイババから受けた衝撃があまりにも大きくて、旅をしていても楽しくなくなってしまったのだ。
そこで私はあっさりと旅を中断し、サイババのいるプッタパルティに2週間ぶりに戻ることにした。
再度のインタビュー
プッタパルティに出戻ってから数日後、またしても日本人グループがインタビューに呼ばれた。私は幸運に感謝しながら、最後尾をついて歩いた。
サイババはある男性に、日本に帰国して仕事はあるのかと質問した。その人が「No job」と答えると、サイババは数人に同じ質問をして、全員が同じ回答をした後だった。
突然サイババは私の顔を見て「And you also?」と言った。完全に読まれていると感じた私は当然「Yes」と答えた。
この問題は私を含めて多くの人の悩みであり、それに対するサイババの言葉は私にとって、その後を生きる指針にもなった。30年近く経った今でも、はっと気づかされる言葉だ。
「Don't worry. Everytime think about GOD. Because GOD have everything. Everything is passing.」
63日の滞在
私はビザが切れるギリギリまでいて、結果プッタパルティには63日も滞在していた。
この間、サイババにまつわる様々な経験をしたが、どんな経験をしても、それは自分自身を成長させる道筋であると感じた。
だから私は信者と呼ばれる集団には属さないけど、サイババが特別な存在である事を知り得た旅人として、旅を再開することにした。
出発の時、私は満足感とともに、またここに戻ってくるという、確信めいた気持ちがあった。サイババにはまた会いに来る。そう思っていたのだが。
サイババ死去
時は流れて、2011年にサイババ死去のニュースを見た時には、とても驚かされた。サイババは肉体を離れる年齢をずっと前に発言しており、それはたしか2020年頃だったはずだった。
だから私は2010年代にサイババと再会する為に訪れる計画を立てていたのだ。サイババの予言が外れたことに対して、私は信じられなくてショックだった。
公式見解として、インドでかつて使われていた暦で計算するとサイババの予言は間違っていないとされているが、後付けの言い訳のように私は感じた。ほぼ全ての信者にとって、あのタイミングでの死去は想定外の出来事だったと思われる。
とにかく、サイババは肉体を離れてしまい、再会は叶わなくなってしまった。
2025年、再訪
サイババがいなくなったプッタパルティに行って、何をするのか。私もよくわからない。ただ、プッタパルティで自分のこの29年間の思いと行動を振り返って、ご報告をしたいと考えている。
私はサイババから直接指導を受けられた幸運な旅人であり、またこうして一人の旅人としてプッタパルティに戻ってこられる事に感謝を申し上げたい。
最後に、奇跡的に手に入れた、サイババの写真に私が写り込んだ奇跡の一枚です。この写真を持って行きます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ॐ श्री साईराम
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