なぜ世界のエリートは加賀屋で酒を飲むのか
「地域の酒好きおじさんに愛される大衆酒場」というイメージの加賀屋だが、近年、客層に大きな変化が生じている。
私がこの変化に気付いたのは、2年ほど前だった。水道橋店のカウンターで飲んでいると、隣の席に座った客が、明らかに「近所の酒好きおじさん」とは一線を画した雰囲気であることに気付いた。周囲のおじさんがスポーツ新聞を読んだり、ぼんやりと店内のテレビを眺めたりしながら飲んでいる中、この男性客はカウンターにノートPC、それもMacBook Airを広げ、何やらプレゼンテーションの資料を作成しているようなのだ。
長らく加賀屋で飲んできた私だが、カウンターにノートPCを広げて仕事をしている客は初めて見た。加賀屋で飲んでいると人間は「有意義な生産活動」をする気がなくなる、というのが私の持論で、自慢じゃないが私は加賀屋で仕事をしたこともなければ、ビジネス書に類するような仕事絡みの書籍を読んだこともない。加賀屋の店内には、客を強制的にノンビリ・ボンヤリさせてしまうようなオーラが満ちているのである。
なのにその男性客は一心不乱にビジネスで使用するであろうプレゼン資料を作成している。ノートPCの脇には煮込みとチューハイのグラスが居心地わるそうに鎮座しており、男は数分に一度、まるで息継ぎをするような間合いで、チューハイをグイッと一口飲むのだった。スタバでコーヒーを飲みながら、ならよく見る風景だが、加賀屋のカウンターでプレゼン資料作成とは。この男、どうも只者ではない。
そう思って、改めて男の風体を眺めると、どうも見覚えのあるファッションスタイルであることに気付く。体のラインに完璧にフィットした黒のタートルネックに、品の良いブルージーンズ、ニューバランスのスニーカー、そして知的な印象の丸眼鏡・・・
「ちょ、え、あなた、スティーブ・ジョブズよね?」
人見知りで酒場で出会った人と会話をするのが極度に苦手な私が、思わず男に声をかけてしまった。彼は作業に集中していたようで、少しの間声をかけられたことに気づかなかったが、数秒して私の視線に気づき、「いま何か私に話しかけましたか?」と尋ね返してきた。
「いや、だから、あなた、スティーブ・ジョブズよね?」
そう改めて尋ねると、彼は私の目をまっすぐに見つめて「はい、ジョブズです」と答えた。正直、「そんないきなり『はい、ジョブズです』とか言われても・・・」とも思ったが、せっかく世界最高峰のクリエイターと会話する機会を得たのだから、なんとかしてジョブズ流イノベーションの極意を聞きだせないかと、迷惑を承知で彼に積極的に話しかけた。
「そのチューハイ何味ですか?」「グレープフルーツです」「すきなモツの部位は?」「カシラです」「もつ焼きはタレ派?塩派?」「塩です」「ここの加賀屋よく来るんですか」「月に1度くらい」
正直このあたりでだんだんジョブズとの会話にウンザリしてきた。世界を代表するクリエイター・経営者だと言うのに、返事のレベルがその辺のおっさんと同レベル。もうこれ以上話しても有意義な知見を得られることはないと判断し、会話をクローズさせにかかったのだが、最後に一番最初に感じた素朴な疑問をぶつけてみた。
「なんで加賀屋で仕事してるんですか?スタバとかじゃなく」
するとジョブズの表情がみるみる「いい質問ですねえ」なモードに変化した。そして、少し間をおいてから、こう答えた。
「これはね、高地トレーニングなんですよ」
そういうと、彼はパタンとノートPCを閉じバッグに閉まってから、店員に声もかけずそっと店を出て行った。しばらくしてにわかに店員のおばちゃんが騒ぎ始めた。「あれ、あのお客さん会計した?してないよね?じゃ払ってない?1円も?え、それじゃ食い逃げじゃないの!あいつチューハイ4杯も飲んで!グレープフルーツ味のやつ!ちょっとタクちゃん、警察に電話して!え、119番はあれでしょ、違うわよ、消防署のほうでしょ」
にわかに騒然としてきた店内で、私はジョブズの言葉の意味について考えていた。高地トレーニング・・・そうか、そういうことか。加賀屋には「人がダラけたくなる」空気が超高濃度で充満している。常人ならプレゼン資料の作成はおろか、メールのチェックすら不可能だろう。「だからこそ」ジョブズは加賀屋で仕事をする。加賀屋という地球上で最も仕事が捗らない環境でビジネスに打ち込む訓練を積んでおけば、例えばオフィスのような通常の作業環境では超越的なパフォーマンスを発揮できるに違いない。そう、酸素の薄い高地で走りこみをしたランナーが、低地で驚くべき持久力を発揮するように・・・
ご存じの方も多いだろうが、スティーブ・ジョブズは2011年に56歳の若さで亡くなっている。死してなお、加賀屋で新たな未来のビジョンを描きつづける彼は、まさに時代のカリスマと呼ぶにふさわしい。