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1週間で2回ジークアクスを見た人の感想とか考察(妄想)

皆さまにおかれましては、ガンダムジークアクスをご覧になられましたでしょうか。

どうも百入百敷です、今週の水曜日にジークアクスを見てきました。そして土曜日にも見に行きました、IMAXで。

つまりは、そういうことである。

めちゃくちゃ良かった………


事前の情報を一切入れずに見に行ったのだが、それでも十分に楽しめた。


ガンダムは好きで、ファーストは見ている。全シリーズは追えてはないが、ある程度のガンダムシリーズ及び宇宙世紀の流れくらいは知っている。
ちなみにガンダムで好きな作品は、鉄血のオルフェンズとサンダーボルトである。



今現在ジークアクスへの感情が高まっているので、感想なるものをつらつらも書き並べていこうと思う。


特に考察や解説まがいものを語るがただのオタクの感想であることを念頭において見てほしい。

詳しいガンダムの解説だったりは歴戦のガンダムファンの諸先輩方が書かれていると思うので、そちらをご覧になってほしい。

この先ネタバレしかないので注意。


それでは。


令和時代のガンダム

この記事にたどり着いた人はきっと、アレの話を読みたいのだとは思うが、とりあえずはジークアクス本編から話させてもらう。

なぜなら単純に、令和時代のガンダム作品として面白いからである。

デザインはポケモンのキャラクターデザインで知られる竹さん。画風はデフォルメが効いたポップで鮮やかな色彩が目立つ、いかにも最近っぽそうな絵柄。髪の毛に入るハイライトや目の描き方はシンプル。記号的、デザイン的な表現がされている。


令和最初のガンダムシリーズである、「水星の魔女」においてもガンダムシリーズ初の女の子主人公であったり、革新的な設定があったり、今風の絵柄になっているもののガンダムシリーズの延長といった感覚があった。


しかしジークアクスにおいては絵柄が明らかに違う。ガンダムの絵柄ではない。キャラクターが公開されたのを初めて見た時には、正直に言って違和感でいっぱいだった。

この可愛くてポップ、言うならばリアリティのない絵柄でガンダムをやるのか……?という気持ちが強くあった。

ガンダムは(ビルドシリーズを除く)リアリティのある戦闘や人間同士の対立、現実に打ちのめされる苦悩が強く描かれていることが多い。そうした重く暗いストーリーに、この真反対に位置するといっても過言ではないキャラクターが果たして合うのか、という疑問だ。


結論から言う、めちゃくちゃ良かった。

逆にそうであるから良かった、とも言える。ジークアクスは全体がミュージックビデオ的というか、パン、パン、パンとシーンが切り替わるようにスピード感のあるストーリー展開だったように感じられる。

特筆すべきはやはり戦闘シーンである。
ジークアクス本編の前、0079時代の映像表現との対比が興味深かった。ひとつの作品の中において、絵柄を変えるなんていうご法度極まりないことをやってのけているのだ。

0079時代はファーストを見たことがある人なら懐かしさを覚えるサウンドに、セル画風の爆発エフェクト、ソロモンやルナツーの影の入れ方なんか当時そのものだ。

そんな所から突然のキラキラである。当時のガンダムでは決して交わることのないあの彩度の高い色彩。そして現代の作画への転換。
こんな映像作りがあっていいものなのか!!という衝撃が凄まじかった。

ルール破りだ!と言ってしまいたくなる気持ちがあるくらいだが、別の絵柄を混ぜた上で作品を成り立たせるのは相当に難しい。それを綺麗に取りまとめている。すごい。



電子音によるディストピア感

先ほどミュージックビデオ的と表現したのは戦闘シーンに顕著に現れている。マチュがガンダムに乗り込もうとする場面、プラズマが流れ出したあの瞬間。ドラマでいうなら主題歌と共にエンディングのキャストロールが入るところだ。

それをガンガン音楽をメインで流れる中で戦闘が繰り広げられる。その光景はさながら音MADみたいだ。


挿入歌として流れた「ミッドナイト・リフレクション」や「もうどうなってもいいや」も、まさに今の流行りといった電子音バキバキの楽曲でこれがガンダムで流れるのか!という感動をも覚えた。



ボカロ文化から生まれてきたアーティストであったり、パソコンで音楽を作れるようになった時代ならではの音感というのは現代だからできる表現だなあと感じ入った。

電子音というのがジークアクスの世界観をサイバーパンク的なものに昇華しているように感じられる。今までの宇宙開拓だとか宇宙人との出会いとかのいわゆるSFというものから、ネオン煌めく夜の街、感傷的に沁み入る孤独感、ディストピアのような雰囲気も抱かせる。

機械音の持つ温度感の無さが、分断されて個別化されていく社会の様相を表しているように思えた。


マチュとニャアンの見てる世界の違い

実際にジークアクス内では戦後から6年というまだまだ戦争の傷跡が多く残る時代であり、マチュやニャアン、シュウジたちはその戦争をテレビやニュースで目の当たりにしてきた世代だ。それと同時にテレビの向こう側の出来事だと思っている節もある。

それがマチュとニャアンの明確な違いのように自分は思った。
マチュはお嬢様学校に通うお金持ちの子で、ニャアンは戦火を逃れてイズマ・コロニーにやってきた移民の子。「学生の方が目立たない」、「制服が本物じゃない」という発言から、ニャアンは学校には通っておらず、生活のために運び屋をやっている。

マチュにとっては戦争はテレビの向こう側の世界の話で、ニャアンにとっては自身を生命の危機に晒しているもの。
両者の見てきた世界はあまりにも違う。

それゆえだろう、冒頭のマチュのモノローグの“生きていない感”というか、無気力っぽくも見える自身の所在なさ。塾も周りが行ってるから行く、門限があるから帰る……みんながそうだから、そう決まっているから、という風に自分の意思が薄弱なのだ。

あの光景を見るまでは。

軍警察による移民街の破壊を目撃して、マチュは明確に戦わなければと意志を明らかにした。そして実際に行動した。

カネバン有限公司(ポメラニアンズの隠れ家)に行った時も「付き添いで来た」と言ってるように流されて何となくだ。

自分の意志で何かを選択して、自分の意志で自分の運命を掴み取る、もしかするとマチュにとってはそれが初めての経験だったのかもしれない。

その時に初めて本物の生を感じたのかもしれない。

少なくともマチュは、あの時に生まれたのだ。

現代日本と戦後闇市

イズマ・コロニーの光景を見ていて思ったのが、過去のガンダムシリーズと比較しても明らかな程に、純然たる現代日本の描写である。

地下鉄の内装、駅の掲示板に、道路や街並みに至るまで。軍警本部は流石に近未来感ある風貌になっていたが、形はさながら警視庁だ。

都市中心部には高層ビルが立ち並び、郊外へ行くと住宅街が広がる。そしてもう少し行くと、少し寂れた感じになり高架下や裏路地が見えてくる。

そこから移民街へ入ると途端に別世界に入ったような感覚に陥った。全体がせせこましくて、雑然としている。無秩序な建築はまさしく戦後の混沌の様子であり、デバイスのように様々な物品が闇取引されていることだろう。

こうした街が残る最中、都市部はどんどんと発展をし続け、格差が開いていく。他愛のないキャラクターたちの場面移動で、このコロニーの現実が突き付けられた。

テレビシリーズ楽しみ

といったところでジークアクスの感想をつらつらと書いてきたが、もっと情報が欲しい……何も分からない。

早く続きが見たい……

特にシュウジに関しては今のところは情報が無さすぎて何も分からない……といった感じ。あの不思議な間であったり、捉えどころのない性格、希薄な感情というのがニュータイプゆえなのか、なんなのか……赤いガンダムの謎も気になるし、出自も何か特別だったりしそうだなあなんて思っている。


この先のテレビシリーズがとても楽しみで仕方がない。


初手の感想

お待たせしました。
それでは映画冒頭の感想をどうぞ。

映画が始まって初手のアレである。聞き覚えがありすぎる効果音。
ファーストじゃないか!!!!

ファーストを見たことある人全員がきっと思っただろう。
やりやがったな!!!!!と



思いもよらぬ宇宙世紀に叫び出しそうになった。そして理解した、あぁこれはガンダムに乗ったのがシャア・アズナブルだったらというIfに基づく物語なのだと。

初回見て、パンフレットを読み、解説などを見漁り、2回目を見て、思った。


これは「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」を経験しなかったシャアの世界線なのだ。


If挫折をしなかったシャアの世界線

ファースト第1話で戦果を焦ったジーンが独断強行し、アムロ・レイの乗ったガンダムに撃破される。
これジークアクスではシャアが、全く同じことをやっているのだ。そしてジーンとは異なり、戦果――ガンダムと強襲揚陸艦ペガサスを奪取した。

まぁ言ってしまうと新兵であるジーンとジオンのエースパイロットであるシャアでは、力の差が歴然であったというだけなのであるが、ここが肝なのだ。

この世界線のシャアは一年戦争において挫折を経験していないのだ。

第一に、自身の行いを真似した部下の不在。
第二に、宿敵となるアムロと邂逅しなかったこと。
第三に、ララァが存在しないこと。


自身の行いを真似した部下によって不必要な被害を出し、結果論ではあるが戦況悪化の一因となった。これが起きなかったことにより、「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」という経験をしなかったシャアが生まれる。

同じように自ら先陣をきって潜入し、偵察任務であるにもかかわらずその場の判断で基地を攻撃し、連邦のモビルスーツも強襲揚陸艦ペガサスを手に入れた。
しかも初めて搭乗した最新鋭機体を思うままに操れてしまったのだ。ともなればノリに乗りまくっている。

その後シャリア・ブルとマヴ戦術なるものを生み出し、次々に戦果を挙げていった。


加えて、たまたまその場に居合わせた少年がガンダムに乗り込み、あまつさえ戦闘に勝利してしまうという大誤算が起きていない。

つまり、白い悪魔が誕生しなかったのだ。


そして最後にララァが存在がなかったこと。シャアを語る上でララァを外すことは出来ないくらいに、心身ともに密接な関係にある。逆襲のシャアにおいて「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」というほどに、恋人であり母性を抱いていた存在だ。

シャアは幼少期にジオン軍内部の対立や策謀に巻き込まれ母から引き離された。妹アルテイシアを守るため、ザビ家への復讐を遂げるために、本心を押し殺して大人にならざるを得なかった。そうやって生きてきた彼には、母の愛が飢えていた。

そこに現れたのがシャアと同じくニュータイプであるララァである。そんな人物をどうして描かないことがあろうか?

少なくとも、このジークアクスにおいてララァは意図的に排除されているものだと考えている。ララァ自体が存在しない世界線なのか、今後の物語に関わってくるのかは分からないが、あのシャアのそばにララァは居ない。

となるとサイコミュ攻撃の時に聞こえた「ラ・ラ」という声に説明がつかなくなるので、どこかで本筋に関与してくるのではないだろうかとは思っている。


ララァについて少しばかり熱くなってしまったが、話を本題に戻そう。

アムロとの対立や屈折した感情は単なる敵同士の戦いに留まらないものになっている。ララァを巡る二人の関係もそのひとつといえる。この辺りの詳細は歴戦のガンダムファンの諸先輩方がまとめてくれていると思うのでそちらを参照してほしい。

そして100%偏見なのであるが、ガンダムに登場する男は女性関係で破滅する。

パッと頭に浮かぶ限りでも4人はいる。本当に女性と愛情模様を繰り広げると男は駄目になる。

しかしジークアクスの世界線ではそれがない。つまり破滅しない世界線のシャアがここに居るという訳だ。


If逆襲のシャリア・ブル

そして、そのララァに成り代わったのがシャリアなのだ。シャアのそばにいるのがララァではなく、いわゆる恋愛感情ではない男性だったらというIfでもあるのだ。


それが恋人ではなくマヴ、という形で表現されているのではないか。良い友人になれると語った通り、友人……それも共に戦い、互いに命を預ける間柄だ。

シャアはシャリアに、ザビ家打倒の話をもしていた。本当に心から信頼していなければ、シャアともあろう人物がそのような話をするはずがない。

上に報告をされたら一発アウトだ。即処刑だ。幼少期から虎視眈々と狙っているザビ家への復讐を、そんな軽口で他人に漏らすなど有り得ない。

いわばシャアとシャリアは一蓮托生、死なば諸共といった関係であったのではないか。

逆襲のシャリア・ブル
そしてもう一つ。
これはシャリアのIfの物語でもある。

ファースト本編中ではギレンとキシリアの間で板挟みに遭い、思うように生きられないまま戦場に散った不遇の運命を辿った男だ。

劇場版ではその存在すらカットされており、そもそも認知すらされてないことすらある。かくいう自分もテレビシリーズを見たはずなのだが、そんな人いたっけ?というレベルである。

このシャリアに関しては、この動画の考察が一番しっくりと来たので載せておく。



公開の8ヶ月前、映画とは関係なく投稿されたものであるが、これを見て思った。
映画の制作陣はこれをやりたかったのだと。

戦場に出ない指揮官である大人のニュータイプ


みんなが一度は思ったIfをやってくれた。
ジークアクスは公式がお出しする全力の二次創作なのだ。

ジークアクス、宇宙世紀というファーストばちばちの世界観なのではあるが、ジークアクス単体で観ても面白い作品となっている。
ガンダム特有の過去作見ないと分からないから手を出しづらいというガンダム未視聴者向けに、今回はジークアクス本編の感想を先にたっぷり書かせてもらった。

ということでガンダムジークアクスを見てください。お願いします。

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