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似つかわしいと言われても

何かの真似をしていても、あなたはあなただから。あなたの個性を消さないで。そういうとあなたという個性をわたしがむりやりあなたに押し付けているように聞こえてくる。と思いながら個性とはということを考えていた。知性からうまれる、あなたの個性は、あなたの日々の学びや遊びから形成されるのだと思う。私はあなたになれない。そのことが悔しい。でも、あなたも私にはなれない。これでおあいこ。

似ている人を探すよりわたしは自分と反対側の人間を探す。専ら、頻繁に話す人は自分と半分くらい似ているところがある人なんだけれど。感覚で一緒だね!とか同じだねと言われるのは嬉しい時と嬉しくない時がある。○○と似ているねは場合によって褒め言葉としてうけとれないから自分も相手にあまり言わないようにしている。(聞かれたら似ている人物を探して言うことはある) 相手にとってしたら褒め言葉なのは知っている。それでも、○○と似ているねという言葉には謙遜とその人への尊敬の念を込めて喜べない自分がいる。相手にとって褒め言葉な時でも。もやもやしてしまう。

反対側のひととはそういうことがない。また共感からくる痛みも切なさも薄い。なぜそういう思考になるのか分からないからとにかく聞きまくる。話しあう。そうして仲良くなる。その過程が私はすきだ。

似つかわしいと言われても違いを探したい。それで、違う部分など話して理解し合って距離を縮められたらいい。似つかわしいから話さなくていいとかはない。距離は誰でも最初は空いている。