ファンに金をたかっているままでは引退馬支援は健全とは言えない
無論、現実論としてそれしかないという考えは否定しないが、
おかしいところがあるということははっきりさせておくべきだ。
前提1 競馬というのはもともと罪を抱えている
まずもって、現状のサラブレッドというのは人間が行うギャンブルの駒として生産されている経済動物である。
スタート地点の罪から目を逸らすべきでない。サラブレッドはギャンブルの駒である。
どんなに綺麗ごとを言おうが、
意思疎通のできない生き物を駒にすることによって生まれる不確実性がギャンブルを盛り上げる要素になっているのは間違いないことだ。
人間がトラックコースを走るだけのスポーツでギャンブルがこれほど盛り上がるだろうか?
人間の陸上競技もスポーツとしては盛り上がるだろうが、ギャンブルとしては物足りないと感じるはずだ。
とはいえ、だから競馬辞めろなんてことは言うわけもなく、経済動物というのはそういうものなのである。
人間の経済活動に従事する動物とは、みなそういうものだ。
牛や豚を食べるためだけに育てるのは良くてギャンブルの駒にするのは悪だと言われても、
それはお前の勝手な線引きだろうとしか言えない。
前提2 殺処分という言い方は適正でない
主に競馬を批判する側から出てくる意見として、
引退競走馬の多くが殺処分されている!というものがある。
だが別に、不要になったから殺してそのへんに捨てているわけでもなんでもない。
肥育という過程を経て食肉加工されるだけのことである。文字通り「用途変更」だ。
牛や豚が食肉加工されることを殺処分なんて言わないのに、馬にだけ使うのは明らかに誇張する意図がある。
馬を食肉加工することだけが殊更悪であるかのように誇張する意図がある。
家畜の食肉加工なんてものは人間の社会の中では当たり前にあることであって、特異な物事ではない。
前提3 馬を生かすのも殺すのも人間のエゴである
サラブレッドはギャンブルの駒にするために生産された経済動物で、
駒として活用が終わったら、食肉加工して再利用する。
このサイクルに、おかしいところなんて本来は存在しない。
食肉加工することは悪いことでも何でもないのだから。
食肉加工することがダメでギャンブルの駒にするのは良いというのは、都合よすぎるだろう。
(どちらもダメだと言う動物愛護主義者のほうがまだ筋は通っている)
だが、
都合よく経済動物を扱ってもいいのが万物の霊長たる人間、という面もある。
動物を殺して肉にすることは、一般の人間であればどうしても後ろめたさが出てしまう。罪悪感がある。
肉になる牛や豚は目の前にはいない。
自分の知らないどこかで育てられ、知らない間にどこかで肉になっているだけだ。普通に生きていればそうそう罪悪感を感じる機会はない。
しかし競馬ファンにとっての馬は、毎週見るものだ。愛着がある。だから罪悪感が生まれる。
家畜を肉にすることなんて普通のことだと頭ではわかっていても、馬を生かしたいという感情が生まれる。
そう、経済のサイクルから外れて馬を生かしたいと思うのは、罪悪感から逃れることを目的とした人間の勝手な行動なのだ。
一方的に他者を断罪できる確実な正義の行いなどではない。
ファンの自分勝手だからファンが金を払うべき?
上記の前提1~3は、別に新しい論点というわけでもなんでもなく、以前の競馬の世界では当たり前の考え方だったと言える。
サラブレッドという経済動物のサイクルから外れて馬を生かそうとすることこそが自分勝手であり、
その自分勝手を押し通そうとするならば、その責任は自らが負わなければいけない。
競馬ファンがサラブレッドの食肉加工を嫌がるなら、そのための費用は競馬ファンが出さなければいけない。
…という考え方がまかり通っていたからこそ、引退馬支援には有志の競馬ファンが金を出す、という文化になっていた。
だが、これが歪みの大元である。
誰のための引退馬支援なのか
ところが、現在は状況が全く異なる。
経済動物だからギャンブルの駒にしても何も問題はない、と開き直ってはいられなくなった。
何しろ、牛や豚を肉にすることすら疑問視されてしまうような時代である。
動物をギャンブルの駒として扱う競馬が社会的に正しいものとして存続するには、社会的なエクスキューズが必要なのだ。
競馬という業態が、世界に広がる動物愛護の考え方の中で逆風に晒されているということは競馬ファンなら知っているはずだ。
競馬ファンはそれらの動物愛護思想を一瞥もせず切って捨てるが、社会の方はそうではない。
競馬を社会悪にしてしまわないために、そこに善性があることをアピールしなければならない。
競馬というもともと罪を抱えた世界をこれからも維持するためには、そのためのアピールが必要なのだ。
分かるだろうか。
ただ競馬ファンの感傷のために引退馬を生かしているのだ、という時代はとうに過ぎており、
言うなれば社会からの要請として引退馬支援が必要になっている。
で、あれば、だ。この引退馬支援の受益者は誰なのか。
そう、競馬サークルで働く人間たちである。競馬ファンが受ける利益は、副次的なものにすぎない。
競馬ファンは競馬がなくなっても食い扶持を失うわけではないのだから。(むしろ増えるよね)
そういうことを分かっている競馬関係者はすでにたくさんいるから、
競馬関係者側が引退馬支援を積極的に行うことが増えてきたわけだ。
つまり金を払うべきは誰なのか?
引退馬支援は、競馬という経済圏を維持するためのコストであるという考え方の元で、引退馬支援に金を出すべきなのは誰か。
それは当然、「その世界で利益を得ている人たち」ということになる。
よく引退馬支援を行う責任者として競馬ファンあるいは馬主があがるが、これは今となっては誤りだ。
競馬ファンや馬主は、(個人差は勿論あるが)総体として競馬の世界においてはマイナス収支の存在だ。「お客さん」である。
マイナス収支の「お客さん」に、その市場を維持するためのコストを負担せよ、というのはおかしい。
収支がプラスになっている、稼いでいる人たちが負担するべきものなのだ。その市場を維持するためのコストというものは。
だからそんなもんとっくにやってんだよ!と詳しい人には言われそうだが、
やってるならなぜファンに金をせびる必要があるのか。
「寄付」に頼っているうちはできていると胸を張って言えるような状態じゃないだろう!
例えば引退競走馬の写真集を売るといった試みがある。これなら公正な市場取引だ。
引退競走馬を経済活動に従事させることは最も前向きな引退馬支援だ。ただの「寄付」とは違う。
競馬の世界で利益を出している人が負担する。
馬を使った経済活動を拡大する。これが令和のあるべき引退馬支援である。
もちろん、あるべき引退馬支援の形が変わったからといって、
ファンの感傷がなくなるわけでもファンの中にある罪悪感がなくなるわけでもない。
だからといってそこにつけ込むのはどうなのか。ファンにたかる時代は終わりにしなければならないのだ。
何もかも急にできるわけではないから、現状の次善策としてファンの寄付が必要だということは理解するが、
あくまで次善策であることは理解しておかなければならない。