『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』がハチャメチャにおもしろかった
現在地上波で放送中の『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』を除けば、シリーズ3作目となる本作。これがシリーズ最高傑作だったという話。以下ネタバレあり感想。
冬村かえでのキャラクター
冬村かえでは、精神的にとても幼稚な人間だった。示威的な行いをコミュニケーションの前提ととらえており、これを躊躇しない。ファームの殺し屋たちを仲間にするときには、ビニールハウス内にいた殺し屋たちを皆殺しにし、自分が強いことを声高に主張している。結局彼らは冬村の強さの前に恐怖して従っているにすぎないのに、冬村はそれが仲間と呼ばれる関係性でないことに気づかない。反対に、こうした暴力的なアプローチをとれないような状況では、お弁当を売っているおばさんに「お箸ください」すら言えない。要は他人が自由な意識によって自身を眼差すことに耐えられない。だから暴力によって相手から永久に意識を奪うか、歪めて服従させるといった方法でしか他者と関わることができない。はっきり言えば暴力的な子供レベルの精神だ。こんな人間に友人や仲間ができるわけはないが、そのせいで外部からの視線にさらされない自己の意識ばかり肥大化していき、ますます他者の意思を制圧するような方向性へと先鋭化していく。やっぱり他者との関係性の基礎に自身の強さを置くという行為は人間性を大きく歪ませる。冬村にとってのコミュニケーションとは、常に自身が主体であり、自分が楽しいこと・自分の気持ちを相手にわかってもらうことがすべてで、相手から向けられる感情は見ようともしない。結局冬村と正しい意味でコミュニケーションをとることができたのは、彼の暴力によって殺されることも服従させられることもないほどに強かったまひろだけだ。彼はこのことに死ぬ間際になってようやく気がつく(自分の誕生日を覚えていない=他人から誕生日を祝われたことがない、つまり他人からどう思われているのかということを初めて意識した)。
しかし、彼が完全に相互理解ができないモンスターだったかといえばそうではない。冒頭のシーンでハンカチを差し出してきた少年を手にかけることはなく、ハンカチを受け取っており、また最初のまひろとの戦闘では彼女を降したのち、倒れているまひろにハンカチを差し出している。人の感情を受け取るキャパシティや他人に暴力以外の方法で意思表示を行うという発想もあった。ただ、どちらの場面でも冬村は強者の側だった。結局、その気になれば相手を制圧できるという保険がかけられていなければそういう選択がとれない。だから死ぬ間際のシーンでまひろに敗れた際には彼女が差し出すハンカチを受け取ることができず、銃に手を伸ばして殺される。冬村の欠落は、何かのきっかけがあれば埋められたものだったというのがいっそう彼の悲哀を際立たせている。
他者の意識を認められないほどの弱さ(幼さ)と、その弱さを間違った方向で補完しようとした結果得た異常なまでの肉体的な強さを抱えたアンバランスなキャラクターというのはとても演じるのが難しいと思うのだけれど、誰が見ても直観できるほどに表現されていた。池松壮亮の技量に脱帽。
まひろとちさとの関係性
これはもう百合だった。深川まひろにとっての杉本ちさとの存在があまりにもデカすぎる。もちろん二人の間に恋愛感情はないんだけど、そもそも百合って別に性愛に限った関係性ではないので、この二人を百合と評することに何の問題もない。
冬村のキャラクターは前述したとおりで、それに対しまひろは「ちさとと出会わなければ冬村のようになっていた」と公式のインタビューでも言及されている。実際、ちさとも一般人とは感覚が乖離している傾向はあるものの、コミュニケーション能力は相応に備わっているのに対し、まひろはそのあたりがかなり壊滅的だ。そして殺しの腕はずば抜けている。ちさとと出会わなければ、孤独の虚しさを解消する手段としての殺人を行うようになっていたとしてもおかしくはない。しかし、片割れとも言える存在と出会ったことで両者は決定的に違うものとして表現されている。
この二人の対比は作中で何度かなされていたが、とりわけ意味合いが大きかったのがハンカチと銃の選択だった。冬村がまひろの差し出したハンカチを無視したのは人としての未熟さゆえだが、殺し屋としてはこの姿勢はとても正しい。可能性がわずかでも生き残る道を選ぶというのは、日常的に命のやり取りをするプロとしては当然のものだ。まひろもそれをわかっていたからこそ、冬村から施しを受けた自分への苛立ちを見せていた。そのうえでの冬村の選択は、まひろにとっては答え合わせだった。結果、やはり自分は間違っていた。99パーセントわかっていたことが100パーセントの確信になったからこそ、その時にまひろの口から出る言葉は「そうだよね。」になる。元々の形質が冬村に極めて近い彼女としては、アイデンティティの喪失に等しい。だが彼女はそこで崩れず、死んだふりで驚かせてきたちさとと生きていることを喜びつつ、あらためて誕生日を祝うことを話しながら去っていく。冬村の殺し屋としての正しさの肯定と人間としての弱さへの憐れみ、自分の殺し屋としての弱さに対する諦観と人間としての正しさの受容が、あの「そうだよね。」には込められていた。
その先にさらに構えられているのが、割り箸をシンボルとした表現だ。田坂がカニスプーンのたとえで"ふたつでひとつ"という言葉を残していたけど、割り箸も同じく"ふたつでひとつ"のものだ。冬村はお箸で食べるお弁当を受け取ったときにお箸をもらえない=仲間が必要なときでもこれを得られないのに対し、ちさまひはケーキを食べるという本来フォークやスプーン1本で事足りることですらお箸を使って行おうとする。しかもちさとが割り箸を渡し、まひろが受け取るのだ。ちさとはこれから一人でできるようなこと、一人の方が楽に済むことでも二人でやっていくことを望み、まひろもこれを受け入れる。本当に映画館でデカい声がでそうになった。なんだアレ。
彼女はこの日、殺し屋としての深川まひろより杉本ちさとの相棒としての深川まひろでいることを(おそらく初めて)自覚的に選び取った。人間の選択は選択肢の意味を理解した上で行われるものと理解せずに行われるものとでは価値が違うと私は感じる。まひろは自分が人間として欠陥を抱えていること、殺し屋として突き詰めた生き方をした方が自分らしくいられることを冬村との出会いを通して正しく理解した。その生きやすさを理解した上で、あるいは真っ当な人間のように生きることの苦しさを理解した上で、それでもあえてちさとと一緒に生きることを選び取る。その関係性にはもはや不可侵性すら感じるほど尊い(こんな気持ち悪いnoteを書くことに罪悪感すら覚える)。
アクションシーン
ベビわるのアクションは真剣に観客を楽しませようという試みがされていて、今作だとvs冬村初戦でまひろと冬村が銃を奪い合いながら県庁内を駆けていくシーンとかは最高だった。1作目と2作目にはなかった動線のアクションを見せつつ、銃を手にしているという素人の観客でも一目でわかる優位性を作り出すことで、その持ち手がコロコロ入れ替わる緊迫感をダイレクトにぶつけてくる。
また、今回のアクションシーンには冬村という個人にフィーチャーするうえで、その強さをしつこいくらい演出するという特徴があった。初戦での銃を取りに行くと見せかけての頭突きは1作目でまひろに「クソ強い」と言わしめた渡部を相手に勝負を決めた一手だけど、冬村はこれを見切ってくる。これは彼の強さを印象づける最良の演出だった。さらに最終的にちさまひの二人で冬村に挑むという展開も少年漫画的な熱さを演出しつつ、これまで基本的に2対多数あるいは2対2で戦ってきた二人が、たった一人を相手に食らいついていく様は観る人の心に爪痕を残したと思う。
本作のテーマ
本作のテーマは、『一人で生きていくのって楽しくないよ』ということだった(『仲間とわいわいやるのって楽しいよ』ではないはずだ)。
このテーマはリアリティと創作的な過剰さの2方向から表現されている。前者は作中で入鹿みなみがちさまひに対して、他人に冷たい態度をとってしまうようになった理由を語る場面だ。ここで例えば「親友に裏切られた」というような"かっこいい"理由ではなく、「灰原哀に憧れていたことで、クールぶって振舞っていた」という理由を持ってきたのは、人を遠ざけるとどうなるか、人と向き合うとどうなるのかというのを可能な限りリアルな形で提示するという阪元監督の誠実さと、上述のテーマをスクリーンの向こうのものではなく、自分事として受け取ってほしいという思いの表れだと受け取った。この場面を通して入鹿とちさまひの距離はグッと縮まるわけだけど、「人間生きていれば恥をかくこともたくさんあるけど、それでも人と向き合うことをやめてはいけない」というメッセージ性を強く感じる。
後者は、作中全体の特色だった。まひろ、ちさと、入鹿、七瀬、田坂、宮内たちの側では緩い日常や喧嘩からの仲直り、少し情緒的な雰囲気の誕生日祝い、修羅場とそれを潜り抜けたあとの楽しい打ち上げと、刺激的で充実した人生の縮図のような展開がなされているのに対し、冬村の側からは終始重く、殺しに歪んだやりがいを見出すさまや仲間を求めても得られない孤独、挙句自身の誕生日を覚えていない(誕生日を祝われたことがない)ことに気づいて人生を終える悲哀など、魅力的とは言えないものばかりを見せつけられる。この痛ましさには、孤高とか孤独でいることの強さ、気楽さみたいな一人でいることに対する肯定を「可哀想」の一言に貶める破壊力がある。あまりにもエグい。けどこのエグさを受け止められないような人間は、友人や恋人と楽しくすごす人生を送る方が幸せだと必死に伝えようとしてくれているのだから、この作品の根底には観客に対する愛がある。
人間は、自身以外の多種多様な他人の意識の存在に目を向け、それらから跳ね返ってきた視線を受け止めること、その繰り返しでしか他者との関係性は築けない。それには恐怖や羞恥だったりがつきまとうし、傷を負うこともある。他人の意識を認めず、それらをねじ伏せたり距離を置くような生き方をすれば、傷つくことはないかもしれない。けれども、自らが立っている場所から地続きになっている世界中の他人との関係を築く意義を否定するというのは、自分で自分が生きる世界の価値を毀損しているようなもので、常に人生に対する不満や虚しさを抱えることになる。結局、人と繋がり、誰かを愛する・誰かから愛されることでしか人生は満たされない。