サテニウム中毒症状について

フォロワーがこんな記事を書いた。

それに呼応したものがこれらである。


というわけで、呼応してこのようなものを認めることにする。

当該記事においてサテニウムの摂取には次のような特徴があるとされている。

・喫茶店において摂取される
・コーヒーおよびタバコの喫食を伴うことが多い
・話題は多岐に亘るが概ね衒学的である
・議題があるわけではなく、また論争が起きているわけでもない
・参加者は持てる知見を存分に語り散らす

さて、この「喫茶店」を「居酒屋」に「コーヒー」を「ビール」に置き換えて成立しうるか?ということについて考えたのち、サテニウムについて深めたい。すなわち、これは飲み会ではないのか?という話である。

実際、参加者の多くは大量のカフェインとニコチンによって一種の酩酊状態にあるのは確かである。正確に言えば、アルコール的酩酊ではなく一種の覚醒状態である。カフェイン、ニコチン、アルコールを指して勝手に世界三大合法薬物と呼んでいるが、実際それぞれドーパミンの放出に寄与しているのは事実である。

アルコールが脳に対してどのように作用しているかというのは、実はあまりよくわかっていない。なので以下に語ることは巷で言われている噂以上にはならないが「飲酒時の人格は抑制がとれた状態」であるとよく言われる。すなわち、酒が回っているときの行動や言動、性格というのは、普段理性で抑えているものが出てきているという理解ができる。「酒はお前がダメな人間であることを明らかにする」というやつである。

アルコール影響下における言動が「ホンネ」とされるのもこのあたりであろう。

ではサテニウムはどのような作用をもつのか。

実際、「抑制がとれた状態」にはなっているのだ。ただ、その方向性は正反対である。服毒したものは独特の緊張感をまとい、そして普段理性で抑えられている自己の開陳を始める。ヒトが知的生命体であるとするならば、その頭脳の中身、すなわち知識・経験・推論能力をさらけ出す行為はヒトの本性を暴くことである。

サテニウムを服毒したものは語り始める。語らなければならないのではなく、語りたくなるのである。それも単なる同意同意であったり、私見の押し付けや議論の成否などというものではない。自らが何を知り、何を覚え、何を体験し、そしてどう推論したかについて、ヒトとしての知的能力そのものをさらけ出すだけである。それは言語によってなされる。

サテニウムを服毒すると後頭部から切開することになる。そのテーブルに差しだせる供物の幅の広さ、または奥深さがあるほどサテニウムの服毒に適している。その意味で、ヒトの知的能力をさらけ出す必要があるのである。衒学的であるとはいったが、知識を知識以上の、推論を推論以上の価値を持たせることはない。知っていてすごいとか、知らないと恥ずかしいとかいうことはない。食べさせる供物が多いほどほかの宙に浮いた話題に奥深さが出るし、食べたことがない供物は賞味に値する。リンゴはきっとコーヒーの苦みとタバコの甘みを帯びていたであろう。それはヒトの原罪であり、またヒトをヒトたらしめるものである。まさしく抑制がとれ、日常的には語られない部分を開陳しなければならない。

仮に四人の中毒者がいたとしよう。テーブル席にはタバコとコーヒーと数枚の紙が散乱している。ある中毒者が第二次世界大戦について語り、ドイツは如何にしてソ連と渉りあったかについて語る一方、知っているものは沈黙し、知らないものも沈黙する。しかしその沈黙の意味は異なる。それは食事に似ている。食べたことがあるものであれば容易に嚥下しその味を再び楽しむが、初めて食べるものについては舌の上で転がしながら香りを楽しんでいる。別の中毒者はその時代における技術的なキーワードを拾い、また語る。語っていたものは沈黙し、また別のものも沈黙する。その意味はまた異なる。さらに別の地域の話になり、文学に飛んだり、精神について、宗教について、様々に話題は移ろう。話題とは誰かが持っているものではない。いわばテーブルの宙空に漂っている。ある人が知識を提供してそれを食し、またそれに呼応して別の知識を提供してそれを食す。その呼応も猥雑な同意否定などではなく、宙にうかせたままである。気に入れば食し、気に入らなければ置いておく。そこにテーブルマスターはいない。全員が参加者であり、平等に酩酊している。

サテニウムが盛り上がったというとき、歓声は上がらない。なぜサテニウムが喫茶店という物理的な場においてしか成立しないかについては諸説あるのかもしれないが、私が思うにおそらくその話題を置いておく宙というものが必要なのではないだろうか。これは喫茶であり、すなわち茶席である。オンライン茶道にどれほどの意味があろうか? ただ抹茶を呑むだけ、ここでいえばただ知識を得るだけであれば本を買って寝そべって読めばよろしい。サテニウムというものを服毒するには喫茶店に行き、そして四人で向かい合って別の方向を向いている必要がある。それを儀礼的と言ってしまえばたやすいものだが、作法儀礼があるとか流派があるというよりは四人が同等に酩酊しているということを視覚的・話題的に常時確認し、緊張感を共有することに意味があるのだと思う。そこに話題の宙があるということを視覚的に認識するための喫茶店である。

それは猥雑なアルコールの席とは異なる。弛緩した雰囲気で緊張がゆるんで失言をするような場所ではなく、感性を研ぎ澄ませて知を愛でるのである。「何を言ってもいい」というのはわざと品のない発言をすることを許容されているということではなく、その主張が異端であってもよいということに過ぎない。一部の発言は賞味に値し、一部は嚥下に値し、一部は咀嚼と消化に値する。少なくとも賞味に値すればそれが珍味であっても構わないということであって、場の共感であったり反感であったりということを考える必要がないということである。

そして話題は移ろうが、緩やかな連合弛緩がありつつ、しかし統合を保っている。カードは手許にあるが、場に切られるカードは場札から何となく決まっているのである。それが外の人間からすれば関係ないもののように見えても、その四人のなかではただの三段跳びであったりする。そのために、サテニウムを服毒していると自分の切ったカードから予想されないカードが上に重なることがある。あるというか、それをむしろ期待している。カードの総数は52枚とも限らない。頭脳の中にあるだけのカードが供物になりうる。

アルコールが「お前がダメな人間であることを明らかにする」のであれば、サテニウムはいっそ「お前がそんなことばかり考えている人間であることを明らかにする」のかもしれない。何を考えているのか知られるというのは意外と羞恥心を伴うものである。しかしサテニウムには全裸の思考のみが存在する。そしてアルコールがそのダメ人間具合を楽しむ場であるとするなら、サテニウムもまた、自らが如何に供物を授けまた他人の供物を貪ることに楽しみを見出す場でもあるのだろう。

これはまさに四つ目の合法薬物である。直ちに酩酊するものあれば、サテニウムに「強い」者もいるかもしれない。何が供物になるかは凡そ誰も知るまい。供物になるものがないという恐れを抱くことはない。むしろこの独特の緊張感と頭脳が熱くなる感覚に酔いしれることができるかを試してほしい。

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