美しく儚いものを守ることの大切さ:世界の支配者たちは美しいものを破壊して倫理観・道徳観を破壊して腐敗した世の中を構築させようとしている
人はどのようなものを見た時に、それを美しいと感じるだろうか。
それは例えば大自然の美しさを見た時であったり、人が作り上げた芸術的なものをみたときだろう。
大自然の美しさは一瞬にしては誕生しない。
長い年月をかけて、自然が作り出した度重なる偶然が奇跡のように重なり合って美しい風景や空間が作り出されたとき、人はそれを見て美しいと思う。
人が人の姿を美しいと思うとき、命の燃えたぎるような魂の尊さをみたときに最も美しいと感じ、人は感動するのではないだろうか。
先日、筆者は娘の学校の学園祭に行った際に、新体操部の演技発表を観た。
彼女たちは十年近い年月をかけて卓越した身体能力を作り上げ、さらに日頃から過酷な練習を続けてきており、その身のこなしを見れば、これまで積み上げて来たものの凄さが一目瞭然にわかるというものである。
しかも、新体操という競技は深刻な怪我が非常に多い。
人間の極限に近い柔軟性を維持したまま、高い筋力とバランス感覚が求められるため、一度怪我をすると新体操の競技生命を失いかねないものとなる可能性も極めて高い。
人は可動域を極限まで高めた状態で怪我をすると大怪我をする。
人間の体が年を取ると共に固くなるのは、可動域を少なくすることで怪我を減らすためでもあるのである。
新体操部の部員たちは十代という貴重な時間の多くを新体操の練習に捧げ、美しい演技をするために全力を注ぐ。
彼女たちの踊る姿は芸術性を兼ね備えており、日頃からの絶えまぬ努力の結晶の塊によるものを観客に観せてくれていることが、誰の目にもわかる。
特に、彼女たちによる息を合わせた集団演技は、その美しさと儚さによる感動を観るものに与えてくれる。
彼女たちはこの日の為に十代の貴重な時間をこの日のための演技に命を懸けてきているのだ。
人は人が魂に磨きをかけ、その成果の結晶を観るとき、それに感動する。
若さゆえに可能な身体能力を駆使した演技というのは、まるで一期一会で、それを再び再現することは不可能に近く、受験や進学などを控えた学生たちにとっては、再び同じメンバーで一つの作品を作り上げることは不可能だ。
そのような美しくも儚い芸術作品たる演技は、観る者たちを感動させる。
彼女たちが積み上げてきたもの、作り上げてきたもの、そして、完成させて披露したものに筆者は感動し、涙した。
現代では、このような美しいものが極力世の中から排除され、悪魔崇拝的なものに変えられてきている。
新体操やバレエのような美しいものはテレビなどのエンターテインメントから姿を消され、ヒップホップダンスや悪魔崇拝的なダンスがそれらに取って代えられている。
世界の支配者たちが真に美しいものを排除して、徐々に汚れたもの、悪魔崇拝的なものを見せるようにしているのは、それによって人々の美的感覚を狂わせることで倫理観や道徳観を破壊して、腐敗が当たり前の世の中を受け入れさせやすくするからだ。
美しく儚いものを守ることは人々の良心を守り、人間的な文化と伝統を守ることにつながるのである。
多くの人々が日頃から出来る限り美しいものに触れてほしいと心から願うのである。
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