君の言葉が好きだ
私のことを好いてくれる人たちは、よく「君の言葉が好きだ」と言う。
顔でもなく、性格でもなく、言葉が好きだと。
ただ、ここにあまり意味はない。
彼らは私の喜ばせ方をよく心得ているのだ。
重要なのは、「なんで?」とか「どういうふうに?」とか野暮な質問返しをしないことだ。
ただ「ありがとう」と、それだけでいい。
私も彼らの喜ばせ方をきちんと心得ているのだ。
言葉は繊細で曖昧で脆い。
私は言葉を信じたくないし、信じられない。
それでも、今、この瞬間、私はキーボードを叩いて言葉を紡いでいる。
繋がりたいからだ。
蜘蛛の糸にしがみついてでも、私は誰かと繋がりたい。
マズローの欲求階層に6段階目があるとするなら、私は「繋がる」ことだと答えるだろう。
精神的なものとか、肉体的なものとか、全部を超えた強固な繫がりが欲しい。
思考とは、すなわち孤独である。
考えれば考えるほど、深いところまで沈んで、言葉なんていう表層的なもので語れなくなっていく。
息のできない海中世界で、膝を抱えて海面を見上げる。
人魚姫は足の代わりに言葉を失ったけれど、人間は言葉の代わりに何を失ったんだろう。
そんなことをふと考える。
"フォローする"のボタン一つでインスタントに繋がれてしまう現代。
世界中の人と際限なく繋がっていける。
顔も名前も知らない誰かの間に拡張していく自己。
広がった網の目の中で、自分は生け捕りにされた鮎の気分。
塩焼きにされるのだろうか。
どうせならレモンを絞って美味しく頂かれたい。
誰でも有名になれる時代らしい。
たくさん繋がって、繋がって、繋がって、繋がって。
そしたら有名になれるらしい。
だけど。
私は有名になりたくない。
そもそも、人は誰しも生まれた時点で(おそらく多くの場合は)名前を持っている。
生まれながらに「有名」であるのに、なぜ有名になりたがるんだろう。
私は無名でいたくないだけだ。
私の名前を呼んでほしい。
せがんだぶんだけ、嫌がらずに、何度も。
そうしてくれる誰かが、たったひとりで良い、そばにいてくれさえすれば、私はきっと生きていける。
呼ばれた名前の響きが、特別な色を持って私の心の中に波紋を描く。
海中に沈んだ私の身体がふわっと軽くなって、海面に引っ張りあげられていくのが分かる。
手に握りしめた糸の先に、誰かが同じく糸を握りしめているのが見える。
繋がりを感じられる。
「君に名前を呼ばれるのが好きだ」
だから、私にも君の名前を呼ばせてほしい。