17%フィクション 20.5.11


夜の梅田の街は、人が多くて賑やかで、孤独だ。


「おったわ」


その喧騒の中で、見知った声と匂いを見つけた瞬間は何にも代えがたい安心感がある。
大阪駅の連絡橋出口。
ガラス張りになったフロアからは、駅のコンコースを行き交う人々やその人々を乗せて駅を出入りする車両を見下ろすことができる。


「探したんやで」


そんなことは分かっていた。
何度も掌の中で震えていたスマートフォン。
途中で電源を落として、鞄の中に押し込んだ。


「ほら、行くで?」


生暖かい風の吹く真夏の夜。
差し出された彼の少し汗ばんだ手を握る。
ずっと下を向いていた私がようやく彼を見上げると、彼はもう進行方向を見据えて、私を視界に入れていなかった。
喉仏で出来た首筋の影。
これが私のお気に入り。


「何でさっきスマホ見んかったん?」


彼の口調は決して責めている風ではない。
そもそも、彼から感情の起伏を感じることがあまりないのである。


「探して貰いたかってん」
「それはまたどうして……」


呆れたような口調を作る。


「女のコは王子様に探し出されるのをいつでも夢見てるもんやねんで」
「んー、跪かんかった時点でさっきのは失格やったな笑」
「いやいや、そんなん人前でやらんでよ笑」


エスカレーターを昇る。
自然に手を繋いだまま前後に並ぶのも手慣れたものだ。
この時間にHEP方面へ向かう人通りは少ない。
背中に神戸方面の終電を告げるアナウンスが聞こえた。


「ん?」


隣を歩く彼が、ほんとにいいの?って顔で私を見つめていた。
答えない代わりに、掌に少しだけ力を込める。

大通りに出ると、如何にも力のあり余った生命力に溢れる若い男女の集団が、そこここで楽しそうな歓声を挙げている。
HEPの前を通り過ぎて、右。
横断歩道を渡って、東通り商店街へ。


「ねぇ、おにいちゃんたち今からもう一軒どうっすか?」
「ごめんなさい、大丈夫です」


キャッチの人から私を庇うようにして、でも律義に一人一人断りを入れながら歩いていく彼の背中を見つめる。
こんな何気ない瞬間に、彼のことをとても好きだなぁと思う。
少し早足の彼と距離を詰める。
彼のシャンプーの香りがした。


「お風呂もう入った後?」
「うん。そうやけど、何で?」


振り向きざま不思議そうな顔を浮かべる彼。
もう風呂も済ませて眠りに就こうとした矢先だったに違いない。
こんな時間に呼び出してしまったことを、今さらながら後悔する。


「ごめんね?」
「ん?何が?」


声高らかに取引先の客だか上司だかの名前を叫んで、罵声を飛ばしているサラリーマンのせいにして、聞こえないふりをした。
大人になると、私もああなるんだろうか。
隣を歩く彼が、夜の繁華街で自我も無くすほどに酔っ払って、あんなふうに大声を出している様は、どうしたって想像できない。
でも、もしかしたら私の知らないだけで、ああいう彼もどこかにいるのかもしれないとも思う。
私が彼の左手首にある刃傷の理由を知らないように。

商店街を抜けて何度か折れ曲がった裏路地。


「ここなら誰もこぉへんな」


黙って腕を引かれるままに歩いてきた私は、彼の目的地が此処だったことを初めて知る。
犬も歩けば人に当たるこの街に、こんな場所があったなんて。
フェンスに背中を預ける。
おそらく表は居酒屋なり何なりの飲食店なんだろう。
数m先にある排気口から独特の油の混ざった匂いが吐き出されている。
彼と目が合った。
真正面から見る彼の顔は整って、とても綺麗だ。
その彼の瞼が静かに下りる。
唇が重なる。
なんでこんな場所を知ってるんだろうとか、前の女のコとも此処でキスしたんだろうかとか、そんなことを考えてしまう自分が嫌で、薄く口を開いた。
隙間から入り込んだ彼の舌が私のそれを優しく絡め取った。


「アルコールの味がする」
「アルコール消毒してあげた笑」
「俺は何を消毒されてん笑」


その時、何処からともなくけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
路地を進んだ先の幅1mほど開いた視界に、何台ものバイクが走り去っていくのが見える。
きっとバイクに跨がっているのは私と歳のそう変わらない世代。
世の中にはいろんな人がいる。
彼らに対して、煙たそうに冷ややかな目線を送る者もあれば、こんなふうに活き活きとした瞳で瞬きを忘れたかのように釘付けになる者もある。


「暴走族とか好きなん?」
「好きとかじゃないけど、気持ちよさそうやん」


気持ちよさそうなのは、分かる気がした。
夜の街を駆け抜けていく彼らを突き動かしているのは、きっと、誰よりも早く明日に辿り着きたいとか、そういう単純な衝動なんだと思う。
こんなふうに、裏路地で身を寄せ合うことでしか、今日と明日の隙間をやり過ごせない私たちは、馬鹿だ。


「もう死のうかな」


どうせいつか死んでしまうなら、私はこんな夜がいいと思った。
彼が居なくなってしまったら、私は誰とこの時間を彷徨えばいいんだろう。
彼を失ってしまったら、私は誰とこの不自由さを甘受すればいいんだろう。


「死んだら探してやらんからな、酔っ払い」


明るい闇色をした空に、彼の声が溶けた。

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