"分かり合う"ということ
冬。
みなさんは、どんな印象を持っているでしょうか。
私がいつもお世話になっている先輩がおっしゃるには、"寂しい"とのこと。冬は寂しいとよく耳にしますが、私は冬のその寂しさが好きだったりします。どこまでいっても私たちは一個人だと確信を持って思えるから。ひとりであることが許される気がするから。
"ひとりじゃない"、"人間はひとりじゃ生きていけない"なんて言葉、よく聞きます。それには同意します。ひとりではない。でも、ひとりじゃなかったら、私は誰かと繋がっているのか?誰かと分かり合えているのか?
"冬は寂しい"とおっしゃった先輩とは、波長がよく合うので仲良くさせてもらっています。先輩が好きな音楽は私も好きだったりするし、私が好きな本は先輩も好きだったりします。日常会話から少し重い話まで、共感することも多々あります。"私、この人となら分かり合えるかも"と、ときたま感じます。
でも、ふとした夜に、私自身が海の底に沈んでいくように、落ち込んでしまうことがあります。そんな夜に先輩から電話がかかってくると、とても嬉しくなります。暗い暗い海の底に、かすかな一筋の光が差し込んできたように。"この人なら、私を救ってくれるかもしれない"、そう思います。
でも、この人は私の地獄を知らない。私が今どこにいるのかもきっと分かっていない。
"私たちは分かり合えない"
そこにあるのは、絶望と救いです。
誰もここまで私のことを助けに来れない。だけど、私が真っ暗な海底でいつも眠っていることを知っている人がいる。私のことを全て理解することは出来ないだろうけど、分かろうとしてくれている人がいる。
幸福。世の中には様々な形のそれがあるけれど、私にとっては、私が今海底にいる話だとか、指が6本に見える話とかを気軽に話せる、そんな存在が一人でも私のそばにいることが幸せだと思いました。
もちろん、ひとりは寂しいです。誰も私のこの地獄を分かってくれないと考えるのは辛いです。でも、"分かり合えないけど、分かり合おう"としてくれる人がいてくれる。
そのことが私の絶望であり、救いなのかもしれません。
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