記憶の階段

深夜2時。大学の課題をやっていた。今期の授業が全てオンラインになり、課題に追われていてこんな時間までやっていた。そもそも私は夜型だから、単純にこの時間だと集中できるというのもあるけれど。

夜中に作業を持ってくると大抵1、2時間は集中できるのだが、一度作業に区切りがつくと集中力が散漫になるというか、一気に頭の中でたくさんのことを考え始めてしまう時間がふとやってくる。

この日もそうだった。課題を2つ終え、次の課題に手をつけ始めたときだった。それは、源氏物語の玉鬘を読み込んでいく授業だったのだが、資料を読みながら、私の心は高校時代にいた。

高校時代。私は国語の授業が好きだった。高校1年だか2年の夏休みに提出した海辺のカフカの読書感想文を、国語の先生が「あなたのこの感想文はほかの誰かにはなんでもなくても、私の中ではいちばん輝いてるわ。」と褒めてくれた。定年は迎えていたが非常勤で勤めていた女性の先生で、とても柔らかい雰囲気を持っていた。いつも生徒に揶揄われたりするほどふわふわしている先生だが、このときはすごく真面目に、熱を持って、あんまり真正面から言うもんで感謝も何も返せず照れることしかできなかったが、この言葉は今でも私を支えてくれている。要するに、先生が私のことを認めてくれたから授業も好きになったのだ。なんと単純な理由か。笑 でもそこから、文章は私にとって読むのも書くのも大切なものとなった。

授業で、源氏物語を読んだ。大抵の高校がそうだろうか。あの物語の、感情の表し方に強く惹かれた。実はあまり細かいことは覚えていないのだが、授業中にひどく悲しい気持ちになったり、表現の繊細さに驚いたりと、大きく感情を揺り動かされた記憶だけはある。あんまり源氏物語に惹かれたので、先生に個別に教えてもらうことにした。高3の、もう夏も終わりかけていたころで、部活ももう引退していたので放課後に教えてもらっていた。

大学の源氏の授業の資料を読みながら、私の心は、高校のラウンジの窓際に設置された机の前に先生といた。今と同じく源氏のプリントを目の前にして、残暑の夕暮れの光に包まれながら。

その先生にある日、「あなたは夏目漱石の『私の個人主義』を読むといいわ。」と言われたことがあった。「なんだか、あなたにぴったりな気がする」だそうだ。地方の田舎でそんなコアな本は近くの図書館にはなく、当時はネットで買うという手段も私にはなく、心の片隅に置いたまま高校は卒業した。でもそれは大学生になってもじんわりと忘れられず、ふとした折に大学図書館にあるか調べてみた。その本は、自動書庫に入っていた。私の前に借りた人はもうとっくに卒業しているだろうか、何年も前に借りられたのが最後だった。

夏目漱石の個人主義。簡単に言うと、個人主義とは自分の幸福を、自分が落ち着くところを究極まで追い求めていくこと、そしてそれを自分がする以上、他人が幸福を求めることも邪魔してはならない。またそれは自分の意思で追っていくものだから他人の言動に左右されてはいけず、そういうときには孤独を感じるかもしれない。

たしかあの読書感想文には私は孤独を感じるということを書いたか。それか、高校で友人を作ろうとしなかった私を先生は見ていたか。ああ、なぜ先生は私にこの本を勧めたのだろう。エゴイズムで悩む私を見ていたのか。

先生、先生。

私は今、大学のゼミで夏目漱石の研究をしている。もちろん、先生に教えてもらった『私の個人主義』を読んだからだ。先生、先生。あなたに何を伝えればいいのか分からないけれど、先生に会いたい。夕暮れの中で源氏をあなたと読んでいた時間も私を呼んでいる。先生、先生。

お元気でしょうか。

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