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プレシンギュラリティ世代の皆様へ2

前回は主にシンギュラリティの定義と時代背景との関連、そして主に求められるスキル像のシフトチェンジを中心に記事を書きました。

今回はその基礎ネタから1歩進んで、シンギュラリティにより労働経済がなくなった直近数十年(大体2028年~2040年あたりまで)の世界観をシミュレーションしながら、今からと、これからどのような心持で過ごすべきかを記述してみます。

以前までは既成事実から誰もが想定できる範疇での記述でしたが、ここからは生きながら仮説検証も微修正も必要になってくる可能性は孕んでいますので、あくまで1つのパターン検証の一環として読んでいただければ幸いです。


まず、前段までのまとめ

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先にプレシンギュラリティ以降の社会環境について前提を整理しておきます。尚、事実認識の厳密さを確保するために書き方がやや独特な表現になるかもしれません(この項はわかり易さは二の次になります)。

・ シンギュラリティはAIが人間の知能を越えて労働を不要とする時点を要求し、それがコロナによって確実なものになった上、現実としてその開発普及がかつての人類の予想を遥かに上回る速さで加速したことが事実関係から認められる。

・ ただし、日本国に於いては2000年代には既に労働統治モデルに亀裂が入り、年功序列やリーマンショックを起因とする実質賃金の低下などを背景に当該統治モデルの維持が困難となったこと及び、労働意欲も低下し熟練労働者の育成に目途が立たないまま景気が低迷して消費が底冷えしたスタグフレーションの状態が長らく続いていたため、シンギュラリティ如何に問わず、直接的な相関関係も認められないままに形骸化していたものと伺える。

・ 以上の事柄から現在から今後にかけて社会生活上求められるスキルもシフトチェンジしており、現代版の「読み書き計算」は①コンピュータの知識とツールの利活用技能、②国際言語能力、③自己判断スキルの3点に変わった。


前回の記事を要旨要約するとポイントは以上です。

そして今回のテーマは(というより、前回のテーマとも共通したテーマは)、何を差し置いても

「2028年以降の社会でも悠々自適に暮らすためには?」

です。

2028年というのは、シンギュラリティのタイミングは緩く見積もって2030年としても、あと8年足らずですが、どうも私個人的な見方では2028年からは既にシンギュラリティ社会になっていると見ているためです。

そのテーマを踏まえ、今回の時事仮説のポイントを、2021年のプレシンギュラリティの今起こすべき行動も含めて列挙しますと、少し多いですが5点あります。

① 今は余計なものを消していく作業が必要不可欠。

② AI化すると労働はなくなる・・・すると人間の価値とは何なのか?

③ 一番の優先事項はやはり、貨幣経済によって疲弊した精神を回復させること。

④ 条件付の愛から無条件の愛へ。

⑤ スキル的なパラダイムシフトよりも、精神的なパラダイムシフトの方が重要度は高い。

ちょっと覚えにくいでしょうが、見ての通りかなりソフトな内容です。しかしこれらのソフトな内容にも有って余りあるほどに根拠があります。今回も長くなりますが、最後までお付き合いください。


今は余計なものを取り除くのが先決。

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余計なものとは、いったい何のことでしょうか?

昨年、2020年はコロナ離婚もひっくるめて「清算」の年だったと誰もが頷くはずですが、もちろん結婚が余計なものとは限りません。

本当に余計なのは人生の目的以外のものに気を取られてしまい、本当に大事なことを見失ってしまうことがままあることです。

日本国に限定するならば、日本の場合は法定婚イコール戸籍上の手続きを意味しています。これは世界でも少数派に数えられる特徴で、日本最大の謎であり、公的年金に並んで最も現代社会において国民の弊害となっている制度の一つです。

先に断っておくと私は何も結婚自体が悪いものとは思いません。正確には制度の問題で結婚が非常に難解なものになっていることの方が余程厄介だと思っています。(詳細は割愛しますが、この関係で私が万一今後婚姻することがあるならば日本以外の国籍を選択します。)

日本の場合は戸籍が一つの例として余計なものだとして、他に何があるでしょうか? 年金、年功序列は先般の記事の延長として余計な要素として数え上げられると思います。あとはなんでしょう、日本に限ったことではないでしょうが、私は敢えて「競争」だと思います。

競争に一体何の意味があるのか、未だに理解ができません。仮に1つの評価軸があったとしてその評価尺度で全員がスコア10.0なら全員合格で良いと思うのです。なぜ、そのスコア10.0の中から余計な評価軸を加えようと無理をするのでしょうか? これによってまるで生産性のない諍いを増やしていませんか、というのが私の持論。もうね、全員100点満点でいい。

いや、これすらもただの一例で、もっと他にもあると思うのですが、何を以て余計と言っているのかです。

即ち、シンギュラリティ以降で生きていくということは、労働や統治の無い世界で生きていくことを意味します。つまり、全員が人為的な圧力から解放されて自由だということです。その前提から推察して余計な物、その人の心身の健康を害する可能性のあるものを「余計なもの」と定義しましょう。

自由の反対を為すものが余計な物だと言いたいわけです。

自由のアンチテーゼはなんでしょう?

まぁ、さっと思いつくのは義務だと思います。先ほどの戸籍が無意味だと言い切ってしまったのは「無意味に国民の義務(債務)を一方的に国の都合だけで増やしているから」が説明としてはスマートです。戸籍制のない婚姻なら人の役に立つのはわかりますが、まさか今の時代戸籍制と婚姻を一緒にする、かつての封建制度に倣わせるのはあんまりにも酷だと思いますね。

要するに競争も年金も結局は同じ理屈です。単に国の都合で別に国民やヒトは関係ありませんよね。統治が第一箇条の事由であって、人の幸福については何ら咀嚼の余地がないじゃないですか。それじゃああんまりです。

ただ、それらについては自由の反対もなにも、単に得られる対価に対してあまりにも心理的・経済的負荷が大きすぎるというだけのこと。

自由を制約するものはもっと他にも有形無形あります。人から自由を奪う手段・・・1つ目は親権や介護など儒教的な慣習(アジアによくみられる制度)、2つには国籍、3つには言語による行動の制約です。心理的弊害を拾得的メンタリティに限定するなら外的評価、給与、親の資産や相続も関係しているように思えます。

ここで話をシンプルにするため、「親権」や「介護」、「相続」は3つとも戸籍制の一部ですから重複部分として今回は避けておくことにしましょうか。

そうすると上記リストに残るのは国籍、言語による行動制限、外的評価、給与の4つです。

それで、例えば仮に上記すべての制約がなかったとしたら、今自分は何をして、どんな人生になっていると思いますか?今日はそこが大事な論点になるのです。

※附則ですが、国籍の自由は2021年8月現在、税収などの利得関係で成約が多く、実態としては厳密には自由とは言い難い状況と言える。


労働統治モデルが消失した後の「人の価値」とは何なのか?

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そもそもnote界隈では自営業者が大多数を占めていると思われるので、ここをこれ以上強く書く必要はないと思いますが、一応以降の定理の説明を除すために再確認をしておく意味で記述しておきます。

そもそも、人の価値、なんてものは到底定義不能なものだと私は思っていますが、哲学をしていても答えは見えて来ません。

ここで言いたいのは、経済モデルがシンギュラリティによってシフトした後の、特に今から約6年後の社会環境において、人が一番求める、或いは求めてインセンティブの齎される価値とは何なのか?という定義に限定して論理を展開してみようと思います。

6年後というと割とすぐです。オリンピックも1896年のアテネから4年に1度ですから各3年しか空白期間がありません。

今も東京オリンピックが終わったと思えばフランスのオリンピックが話題になるくらいの感覚に縮尺を充てても2回転相当。生物学的にも年を取ると人間は時間の感覚が速くなりますから、年配に近づけば近づくほど6年後の未来と言えど明日明後日レベルの話ですし、今と認知的な導線があると考えても申し分ない線形の領域内とします。

(※前回の記事でも書いたように、今から約4年後にはモビリティの殆どがオートメイションで無人化することを前提にすれば、年齢に依らず皆さんの脳内でもより鮮明にシミュレーションができると思います。)

ここでより細かく鮮明に描くために引き合いに出すのはbefore.afterで、コロナ前の社会の価値観と、コロナ後の価値観で比較するのが近道になりそうです。

コロナ前(Before)の労働統治モデルの世界観ではお金を稼ぐことが=人生価値に匹敵していました。

なぜかというと、リタイアをして年金暮らしをするように国の統治モデルが完結していたためです。それにより労働意欲を確保し、労働力の安定を図った。なぜなら戦後当時は機械の代わりに人間しか生産できなかったからです。

尚日本に限れば脱サラして自営業といっても自営業の制度も結局はサラリーマンの延長でしたから、ほぼ無限小として考えます。またリタイアを早めたい、老後の生活にゆとりを持ちたい、などの理由ですので同じ理論上のものと解決します。

そしてコロナ後(After)ではそれらが総じてなくなります。間違いないのはその1点です。

さてここからは考察タイムです。

年金がない、リタイアもない、労働もない世界では何が一番の社会的な価値になるかといえば少なくとも貨幣ではないということです。(とはいえ経済アルゴリズムそのものが消失するとは考えにくいが、過熱していたものが冷める、程度のものと想定してください)

一応、労働性収益を宛にしていた期間が長いと、その慣性力から相対的心理的に貨幣の希少性が高まりデフレを引き起こす可能性も計算に入れてでもこの結論に影響はありません。

なぜなら労働統治モデルを偏重していた国は日本以外ではそこまで多くないからです(統計データなどでコロナ前までの世界中のサラリーマンの割合を確認してください)。

労働統治モデル(社会主義や共産主義)でない・・・例えば資本主義の国ではどうなのかと言えば、スイスやオランダ、アメリカ、ドイツなども考えてみると、やはり同様の事態が起こっていると考えられます。

例えばわかり易いところでいえばニューヨークはかつての様相とは打って変わっている。スイスでもビジネスモデルが古く、コンピュータが今ほど普及していなかった頃のアイディアがベースにあるため対応が追い付いていない(GNIも昨年未公表)、ただアメリカは雇用が復活したと言ってももとより自営業や起業家、株式の国ですから話の前から論外です。

当たり前のことですが、スイスやルクセンブルクだってほとんどは資産運用による利回りで経済が成り立っていますから別に労働がどうのこうのと日本の方みたいには考えませんよ。向こうでは考え方がまるで真逆です。ベルギーだって表面的には公務員社会でも、実は結構な資産があるようにも思えますし。

ご存知のように米国経済の主題は主には労働より株式等の資産運用が優位だったからです。アマゾンの倉庫がどうのと言われていますが、当のアマゾンは倉庫作業を自動化させていますし、どちらかと言えば労働経済は一部の低所得層に限定されている話を過激に描写している感も否めません。

またマイクロソフトを始めコンピュータの国でもあるので列挙してもキリがないので今回は割愛しますが、もう一つ、ここで特徴の比較要素を加えておくなら社会主義の国と他の国が違うのは居住がさほど重くないことです。

この違いは例えば社会主義の日本では居住=人生ですが、資本主義の国では必ずしもそのような方程式は成り立ちませんでした。

というのは周知の事実に徹する成れば欧州はそもそも欧州市民権がありますしシェンゲン内であれば移動は自由、ビザも欧州ビザであちこち住めましたから、別に国籍が必ずしも人生やキャリアを決めていない。アメリカも同じです。

これはかつての社会主義と資本主義の代表的な違いの1つに数えられます。

では今はどうかというと、資本主義だった国でも相変わらず資産運用がメインだし、北欧圏を中心に不動産が成長しており、安全資産として外貨に振り替えられ国際分散投資と先進技術投資を中心にファンドが普及しています。

日本とやや事情の近いフランスでもAIやIT企業誘致として外国人を誘致し、前から国策として行っていたフランス語教育も相俟ってPRはそこそこ進んでいたようです。尤も、その戦略は現地に集めることを想定した計画だったのでコロナで停滞していますが。

では資本が相変わらず価値なのでは、となりそうですが事はそうも単純でもなさそうです。このことは文化理解が必要なので理解が得られそうにありませんが、資本主義では資本が力ではなく「理想」が力で、そこに資本が集まる世界観でしたから、資本主義の世界では残念ながら予想に反して元々資本は力を意味していません。

さて、大学の講義ではないので適当なところで区切って、仮に今まではお金=資本がそのまま「力」でした。しかし資本が根本的な力を失ったとしたらあなたは何をすると思いますか?

私なら先ず山や湖に出かけます。笑

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やったーー!!

これまで散々ゴリゴリの理詰めで書いたのに申し訳ないのですがこの山に登りたいということを主張するために量子コンピュータが処理しそうなくらいの文字通り山のようなビット数の情報を解析しました。

冗談はさておき何が言いたかったかと言うと、AI社会となって労働がなくなると、人は何を求めるか=全員が一斉に自己表現を始める、ということに他ならない。なぜ敢えて自己表現?Why自己表現。

勿論皆さんの感覚が察知しているように、今はまだ労働統治モデルの時代の名残で外的評価・・・たとえばフォロワー数だとか、いいねの数だとかいう外的評価がスコアでした。これはまだサラリーマン的な発想なのです(まぁ、中には純粋無垢にゲーム感覚で増やしている人もいますけど)。

しかし、それも早晩なくなることが想像に容易いのです。

うーん、謎に謎が重なりますね。

さぁここからはなぜ山に登りたくなるか・・・基、なぜAI社会になると貨幣価値が落ちて自己表現に生き始めるのか、そしてどのような自己表現が浸透するのかについてを後半で述べていきます。


一番はやはり、貨幣経済によって疲弊した精神を回復したくなる。

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誰だって思うはずです。10年、20年と働き詰めだったら、コロナで仕事がなくなったら「そうだ、Zermattに行って、Matterhornに登ろう」と。

半分冗談、半分真面目です。

そう、ここからは結構皆さんの普段の生活の感覚にフィットしてくると思います。ただそれが氷山の一角で、実はその裏側背景には莫大な背景があったのです、と言いたかっただけ。

もっと言えば、みなさんの感覚は正しいと思います。

たまたまコロナがあって、巣籠になって、珈琲を飲んだり、花をめでる時間が伸びただけであって、時代の潮流がそちらに向かっているのは科学的にも社会学的にも人類学的にも生物学的にも先ず間違いありません。

というか、私が言いたいのはその先がどうなるかということだったのですが、殆ど結論は出ており、今後はただただもっとその要素が大きくなっていくだけ。面白いと思いませんか?今後どんなすごいIBMコンピュータが現れても結論は変わりませんよ。

先ず当座は表題の通り、貨幣経済によって疲弊した精神を癒す時間が必要だからです。先ずはそこが起点となっているのは間違いないでしょう。

前の記事から労働統治、労働統治と煩かったのはそのためで、労働統治がなくなると貨幣価値=政府信用力よりも貨幣流通を頼れなくなるから。政府信用力なんて今マイナスですからそこは正直無視してよくて、尤もみなさんがこれから着目すべきは貨幣の流通の仕方が一気に変わるということ一点です。

それに多分ですが、貨幣を求めて暮らすことに辟易しているということも相俟って心理的な需要が減る。笑

今度は人類はいろんな辛酸をなめたため貨幣を求めないで済むような暮らしを求め始める。

これが私の大方の予想です。

そして、貨幣を主目的とした人生価値に終止符が打たれたとして、先ず時間の制約が解かれます。時間の制約が解かれて、かつての老後モデルのように、盆栽を始めたり、和式クリケットや乗馬を始める。あれは実は普遍的な心理作用だったのではないか、ということです。

労働統治モデルの終焉=貨幣至上主義がなくなる=時間の制約がなくなる。

このことは勿論シンギュラリティの観点からも同様の計算プロセスが得られるので見方を変えただけです。

シンギュラリティ=時間の制約がなくなる。

だから、勤務時間と言うブルーカラー経済がこの世から消え去った後、どうするかという論理に置き換える事ができます。それはコロナがあるとかないとか関係ありませんよ。技術の進歩と共に時間の制約がなくなるという学説は昔からありますもん。

それで先ずかなり保守的に言っておくと、時間価値が変わります。

時間価値=貨幣だったのが、時間価値≠貨幣となると、何を選ぶかは、仮に世界から貨幣がなくなったと仮定して人類が何を始めるかを思考実験するば解を得られると思いますね。

先ず増えるのは農業でしょうかね。貨幣至上主義によって飲まれた農業が息を吹き返す。農地を買い取って耕し始めるなどです。

次に在り得そうなのはロボットを作り続けてゲームを始める。笑えますね。既にそういう現象は起きていますので生起率をカウントできる。

それから想像しやすいのは本を読み、字を書くことです。


考えてもみてください、どれもこれも貨幣至上主義に奪われたものたちです。そもそもの源流に遡ると、貨幣に価値を置いた場合、獲得するのが難しくなり、雇用されれば貨幣が得られるよと政府がPRするとしたら、国民がそこに依存してしまうのは当然のことです。そしてブルーカラー経済は見事に完結編を迎え、先ずは国民に時間の制約を与えることができるはずだと考えたのではないでしょうか。

と、いうことは、これからの世界像は、日本の場合は貨幣至上主義になる前の世界観と照らしてみればすごく想像しやすいはず。貨幣に対してあまりにも異常な地位を与えることで統治したかったが故の文化破壊です(別に貨幣自体が悪い訳じゃない)。

それにいずれも自己表現に関することだということも気づくと思います。

もっと崩して言えばだれもが自分が好きなことを好きな時にやるということです。好きなことをしていいよ、と言った時に貴方が何をするか、ということが即ち2028年以降の世の中を象徴しているんです。

ここで、もう一つの疑問が解決するのは、今のプレシンギュラリティの期中に決算すべきは、この「好きなことを好きな時にやる」ことの弊害になることは徹底排除し、好きなことを好きな時にやりやすいような環境を作り上げるのが神様からの皆さん人類への宿題だということです。

ただここからがちょっと自分でも笑えるなと思えるのは、実は貨幣を求めないで済むようにするには資産運用するしかなくなるんです。面白いですよね。本当は貨幣至上主義でなくなれば当然実質賃金も物価も上がるはずで、理論的には経済が停滞するはずがないんです。

ともすれば、好きなことをできなくなるなら経済的な課題も今のうちに片づけおけ、ということでもありますが、上記の仕様からして、理想に振り切ってしまえば正直あまり心配ないようにも感じますね。

それと、これは日本にも言える事ですが消費が滞って資本の流通量が絶対的に減ったとしても、B2Bの流通量はむしろ増えるのではないかと思うのです。なぜかというと人材が宛にならないとなると設備投資するしかありません。

理由としては昔と違ってシンギュラリティ以降の設備投資は人材が減ることがイコール利益になるような設備投資がより取り見取りだからです。ということは人材が減っても利益が伸びるだけ。現在のSMBCのようなものです。

最初は拗ねたサラリーマンたちもこれ見よがしに早期脱サラ。笑

考えてみればあたりまえの出来事ですよね。

で早期リタイアして一番得をするのは誰かと言うと先ず資産運用に詳しい人たちです。つまり、これまで相当辛酸をなめて運用に慣れて勉強をたくさんした人たち。当座の2024年くらいまでおよそはこんな具合でしょうか。

結局知識は我が身を救うのは何千年と変わらない。

だって、仮に今余力資産がなくてもプログラミングの知識とスキルがある人はまだまだ有効に働いて労働性収益を計画に組み入れられますし、実質賃金は上がっている。希少性も高いことも相俟って安泰ですから、ゆっくりこれから資産形成を考えればいいでしょう。

でも、勉強なんかしないで働け、という人たちは一生低所得・低資産のスパイラルから抜け出せない。これは誰もが認める確固たる事実ですよね。

結局勉強した奴が一番強いのは古来変わらない真理。それはまぁ、ここで敢えていう事でもないでしょうが・・・。


条件付きの愛から無条件の愛へ。

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長くなりましたが、これが今回の記事の最後です。出逢いもあれば、別れもある。長い間溜め込んだネタだったので、書ききってしまうと、少し寂しくもあります。

私がこれまで言いたかったのは、資本主義がどうだとか、労働賃金がどうだというヘイトをしたかったわけではなく、「実はみんな元々は充足した人生を送ることが目的であって、お金が目的ではなかったんじゃないですか」、という問いかけです。

それが今までのこともあってすぐにそちらに推移できなかったとしても、今言えることは2028年以降の世界観と言うのは少なくともそれがマジョリティ、大多数を占めているという事くらい。民主制に訴えるならば大多数に則った方が代数的に求めやすい。

だから、実はこの記事の裏のメッセージは「お金があろうがなかろうが、貴方が本当は現実に体験したかったことはなんだったんですか」ということなのです。

資本主義の世界観では、お金は社会主義ほど希少価値はないので、必然的にインフレーションとなり、貨幣流通量が上がります。

貨幣至上主義を捨てて、本当の人生価値に目覚めた時、実は相反するかのように得られる可能性が高いのは、お金に縛られない人生、真のファイナンシャルフリーな人生なのではないだろうか?

これが、経済屋でもあり、科学オタクでもあり、経営者だった私の答えです。

荒っぽい言い方をすれば、貨幣のことなんか気にせず、理想だけを追ってしまえ、ということです。清水の舞台から飛び降りるような感覚かもしれませんが、捨ててしまえば案外容易いことなのかもしれませんよ。


そしてもう一つ。これによって精神的なパラダイムシフトが起こるという事です。

貨幣至上主義の環境下では、外的評価が一番強かった。そして、貨幣を得るためには人の言うことを聴いて、命令に従う事が一番の処世術だった。

しかし、貨幣主義が崩落すると、必然的に貨幣の煩悩は崩れ去り、インフレーションになり、囚われない人生になる。そうすると次に考えるのは、生まれた時間に対してどんな価値を自分なりに考案し、企画し、計画し、実施するのかということに尽きます。

派生的ではありますが、外的評価の力がなくなると私は無条件に人を愛せる世の中になるのではないかと考えています。

それは、金が優先だった社会から、表現の自由が尊重される社会へとパラダイムシフトしたことにより、他者の評価に従わなくて済むからです。

自分にとって、それはどんな意味を齎すのか、というのが第一となり、他人の評価は二の次となる。そうすれば誰だって人にきつく当たることの意味がないことくらい、なんとなく感じ取れるでしょうから。


余談ですが、オリンピッククラスのアスリートにとって大事なのは自己評価だというのは有名ですが、アスリートだけではなく、芸術家、経営者、優良企業の起業家などのクリエイターたちにとっても共通のアルゴリズムが潜んでいます。

自己統一性。

次回からは、私が本当に語りたかった、自己統一性と、今回あまり書けなかった「無条件の愛」の大切さについて記述していきたいと思います。

(続く)


K@ffee

補足

社会主義(Wikipedia)

ただし、生産管理を国が行っている実態からすると、日本は社会主義というよりもやや共産主義に近いのです。

一応断っておくと私は主義はありませんよ。強いて言えば自分主義です。笑



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