【え17】逃げたかった夏
「田中、何かアイデアはある?」
「・・・(アイデアも何もあるか)」
高校2年の夏。
期末考査が終わり、一段と強く蝉の鳴き声が耳に入る。
部活動ですら億劫で加わらず、自由の身を満喫していた私。
学校というタガが外される夏休みは天国そのものだ。
心からそれを実感していた私に、彼は不用意かつノープランな行動で私どころかクラス中を地獄に落とし込んだ。
ただ、40過ぎて思い返せば忘れられない夏だ。
夏休みが終わり2学期が始まると、各高校では「文化祭」「体育祭」というイベントが立て続けに開かれる。
どこも同じだが、そういう事すら好まない私。
私は文化祭の準備を人の倍ほど行った上、「この時期の砂埃で季節性の癪が出る」という謎の理由を付けて、イベントを回避していた。
思い返すと、1年生にしては大胆な事をしていた。
クラスの顔ぶれは変われど、今年も昨年同様の手段でエスケープしようと思っていた。
しかし、彼の行動がそれを阻んだ。
私の通っていた高校の文化祭は、他校とは毛色が違っていたと思う。
夏休み前に各クラスの文化委員が集まり、体育館のステージで行う「余興」を行うクラスを決めるのだ。
決してシャンシャンとは行かない会談から、1クラスだけが選ばれる。
それを経て、各クラスは本格的に文化祭のプランを検討する。
文化祭における体育館のステージ。
そこは、腕に覚えのある者にとっての「聖域」だ。
バンドを組む者達にとって、そこは武道館と化す。
演劇を行う者達であれば、そこは東京芸術劇場になる。
お笑いに走る連中にとってのその場所は、満席のNGKだろう。
しかし、紆余曲折の結果として否が応でも貧乏くじを引いてしまったクラスにとってのそこは、処刑台以外の何物でもない。
中途半端なハーフタイムショウで、全校生徒からせせら笑いを受けるという「地獄のような場」でしかない。
本来であれば、処刑台に立たされるクラスはジャンケンやくじ引きで決まるのだが、安易で向こう見ずな私のクラスの文化委員は率先して「処刑台の13階段を昇る行為」を引き受けたのだ。他のクラスの文化委員達は安堵しただろう。神に見えたかもしれない。異例の早さで「地獄行きの組」が決まったことで、他のクラスは早々に教室でのアトラクションのプランニングを始めた。
私のクラスには、拙速なお調子者による結果が早々に持ち帰られた。彼は一足早く教室の全員から吊るし上げられた。それを行ったところで、彼の愚行は引っくり返らない。クラス全員で頭を下げたとて拒否権は与えられない。お調子者を文化委員にしてしまったクラス全員が悪いのだ。
誰もが困惑し、頭を抱える様子は想像できるだろう。
突如として渡された地獄の片道切符。
「みんな、何をしよっか」という呑気な声の主を、誰も直視しない。目が合った瞬間にその者はプロデューサーにされ、全校生徒の前で恥を晒した後に、お調子者と揃って『総括』される。軽はずみな文化委員に憎悪は抱くも、視線が合うと共犯者になる。
教室にアブラゼミの鳴き声だけが虚しく響く中、ひとまず会議は休憩に入った。
休憩の際、自販機でコーラを買っていた私に声をかけたのが、クラス全員を敵に回したお調子者。そして、文頭の言葉を吐いたのだった。
安易に引き受けたコイツの行為は万死に値するが、どうしようもない。休憩後に第2ラウンドが始まっても、蝉の声と「何をしましょうか?」というお調子者の口から発する言葉だけが虚しく聞こえる状況は変わらないだろう。
私は、お調子者に尋ねた。
「お前、財布にいくら入ってる?」
「3,000円」
「全部よこせ。俺が引き受ける」
私は人生で初めてのカツアゲをした上で、無理難題を引き受けた。
今思えば、その日は審議を棚上げした状態で「明日、財布に3万入れて来い」とでも言うべきだった。
文化委員の口から「田中が引き受けてくれた」という言葉が出た瞬間、私は火中の栗を拾った勇敢な男として拍手に包まれた。その日の審議は「人柱は田中」という結論が出て、終わった。
クラスの誰もが、帰り際に私の目を見て
「俺に恥をかかすような事だけはさせるなよ」
「田中君、私を道連れにしないでね」
と心の声を出していたと思う。
私は、カツアゲした3,000円を財布ではなくズボンのポケットに入れたまま家路についた。何をすれば良いのやら。いや、「何をすれば地獄にならないのか」を考えていた。思い返せば私も相当な「向こう見ず」だ。家に戻ると3,000円を財布に収め、夏服のまま部屋に寝転んだ。
今でこそ涼しい場で物事の行く末を考えているが、当時の私にはそのような環境は与えられていなかった。そして悩む日に限って暑い。いや、頭がオーバーヒートしている。
少しでも頭を冷やす物を求めて冷蔵庫に向かうと、母が歌番組を録画したビデオを観ていた。この時期は稲川淳二が出る物しか観ない母が、珍しく歌番組を観ている。ブラウン管には、見覚えのある5人組の歌手が映っていた。
これだ。
何とかこれで正面突破しよう。
翌日。
私は母からVHSテープを借り、仲が良かった連中を視聴覚室に集めて、一緒にそれを観た。彼らは止むなく「私と共に地獄に堕ちる」約束をしてくれた。
それと同時にお調子者には、各学年で選ばれた生贄の余興を確認させた。どことも被っていない。当然ながら、ステージを聖域にする方々ともネタは被らない。小さいながらも光明は見えた。
以降、視聴覚室は担任に頼み込んで貸切状態にしてもらい、エアコンの使用許可もゲットした。
普通なら平穏無事に終わる夏休み。
今年は本意ではない「長い夏」が始まった。
それは、5人組の即興グループの誕生の瞬間でもあった。
私は泣く泣くボーカリストとして、CDレンタル店で借りてきたアルバムをカセットにダビングし、歌詞とメロディ、そして「歌っているアーティスト」に近い音程の真似をした。
4人には振り付けのあるサブボーカル役を演じてもらうことにした。
振り付けそのものは単純だったが、それでもテープの映像にノイズが入るまで練習した。
お気楽に様子を見ていた文化委員には、アイテムの準備と必要な道具の買い出しをさせた。アイテムはマイクスタンド5本。買わせたのは「茶色のドウラン」「白い手袋」「カラオケ用のカセットテープ」。それらは学校名義の領収書で落ちる。ただ、どの領収書も品名が「菓子・清涼飲料として」となっていた。お調子者の財布はスッカラカンにして差し上げた。
歌とダンス、合間合間のポテチとファンタで過ぎ去った夏が終わり。
やがて2学期が始まった。いつもより早く始まった気がしたのを覚えている。
「処刑台」へは、実力考査が終わって早々に立たされる。
私達はステージリハを行うのに、夏の暑さが抜け切れない体育館へと足を運んだ。ネタバレNGなので、通しリハは一発勝負。与えられた時間は20~30分。体育館ではバレー部が練習していた。ステージでその様子を見ながら、私達はギリギリに音を落として通しリハを行った。
バレー部のアタックの音が消えた。予想以上にウケた。
少なくともミーハー揃いだった女子バレー部には。
少しだけ光明が大きくなった気がした。
次の課題は、与えられた時間より早く終わった事だった。
「あと5分はどうにか」とお調子者が言う。
お前が全裸でスタンダップコメディでもしやがれ・・・と喉まで出たが口には出さなかった。
曲間のトークでそこそこ時間は潰せるかと思っていたが、5分は長い。
潰せないのなら仕方ない。私は予定になかった「ビデオに入っていたもう1曲」を入れ込む事にした。
問題なのは、それがデュエット曲である上に相手はハスキーボイスの女性だということ。この際、ハスキーは無視しよう。だとしても、私には姉も妹もいない。私はお調子者と共に、学年で一番歌が上手いであろう女子にステージ登壇を懇願した。彼女は『越境応援』に快く応じてくれた。「上手くいったら好きなだけカラオケに付き合う。コイツの金で」という条件を付けて。
まだまだ秋には程遠い9月半ば。
文化祭は始まった。日程は2日間。
ステージ発表は翌日なので、初日は校内を見て回ることができた。
各クラスは様々なアトラクションを用意していた。
お化け屋敷は5ヶ所もいらないだろう。迷路もそんなに必要ない。
いくら学校で1番カワイイ先輩がエプロン姿で用意してくれるとはいえ、コーラ1杯500円はボリ過ぎだと今でも思っている。先輩は元気にしているだろうか。確実に40半ばのオバちゃんにはなっているだろうけど。
外では部活がそれぞれ屋台を出している。体育会系も文化系も関係ない。部活動の費用稼ぎだ。焼きそば、カレー、イカ焼きは定番。特に野球部が作るたこ焼きのクオリティは高かった。あんなに真ん丸に仕上がるのは、手首のスナップが効いている証拠だったんだろう。残念ながら、甲子園にもドラフト会議にも縁はなかったが。
私は一人、教室棟の屋上でバスケ部が作った焼きそばを食べていたと思う。足を伸ばして、吸えもしない癖にカッコつけてセブンスターを吹かしていると、他のクラスの悪友共が集まってきた。
「田中、体育館で歌うらしいな」
「んー」
「M本から3,000円セビって歌わされるんだろ?」
「んー」
「何歌う?」
「んー」
「スコール飲む?」
「んー」
連れない返事で、悪友達の証人喚問に答えていた。
前の年には、無駄にうるさい文化祭や体育祭をエスケープした私。
そんな社会不適合者の割には、この年はそれなりに校舎の屋上で「青春」していた。『セッターとZippo』なんて今の自分にはとても考えられない。
隣に彼女でもいれば、もっと絵になっていたと思う。
仲間が去った後、空を見上げた。夏の空だった。
翌日。
全校生徒が体育館に集まった。
「聖域」であり、「地獄の釜」でもあるステージが始まる。
地獄組は、楽屋と化した教室で準備をする。
ステージに立つ5人は黒のズボンに黒のローファー。上はYシャツ。
色味が無いからと、女子が赤い紐でちょっとだけリボンを付けてくれた。
5人以外は全員「裏方」。女子は即席メイクさん&ヘアスタイリストさん。
当時はツーブロックの黎明期。髪をかき上げると刈り上げが見えるタイプ。
今ではすっかり毛量に陰りが見えてきた私も、一丁前な髪型をしていた。
それをハードムースでセットすると、それなりにリーゼントっぽくなる。
5人の中には女子もいる。女子はナチュラルヘアのまま。
女子のローファーが汚れているのを見ると、サっと裏方男子が磨く。
プライドもへったくれもない。ステージに立つ者が「生贄」なのだから。
教室で準備をしていると、体育館からギターの音がする。
あの頃の男共は、大体が氷室・布袋・稲葉・松本・桑田・尾崎。
この年は「桜井和寿」と「カールスモーキー石井」が特にウケていた。
ミスチルと米米は絶対にハズレがない時代だった。
それにしても、ギター・ベース・ドラム・キーボード。アンプも持ち込み。思い返すと、どのグループも高校生の割には本格的なフルバンドスタイルだった。
盛り上げた場の合間合間で、「地獄組」がお茶を濁す。
トップバッターの1年生は寸劇だったと思う。1ヶ月程度しか時間がない状態でのガチの劇は、高校生にはウケない。どうしても学芸会にしか見えなかったそうだ。
直前に演劇部がTVサイズに乗っからないネタをやったらしいから、ウケる訳ない。先生の鉄拳が飛ぶようなユニットコントの後での寸劇。地獄にも程がある。
そして、私達が「地獄」に立つ時が来た。
幕が開く。
2・1・2の隊形で並ぶ5人にスポットが当たる。
黒塗の顔にサングラス。手には白い手袋。
残念ながら小太りのトランペッターはいなかった。そこは違っていた。
バックコーラスだった「例の人」の役割をしていた奴とは、今でも親交がある。彼は良い意味で、そうじゃない。今も昔も。
そして、ソフトリーゼントにミラーレンズ姿の男が、無理をして声を作りながら歌った。
即席のドゥーワップグループは、全校生徒に響いたらしい。
定番の2曲と即興で覚えたデュエット曲。3つとも外さなかった。
「越境応援」をしてくれた女子も、抜群のパフォーマンスだった。
私も必死になってコーラスを覚えた甲斐があった。
曲がフェードアウトする。
ゆっくりとスポットが消えていく。
そして幕が下りる。
そして割れんばかりの喝采。予想以上だった。
あの時の感触は、30年近く経った今でも忘れられない。
地獄の処刑台を、それなりのライブハウスにさせたのだから。
汗だくで「楽屋」に戻る。全員とハイタッチした。
お調子者には、残ったドウランを塗りまくった。
担任が即興で打ち上げの準備をしてくれた。
裏方男子は、表方も含めて盛り上がった。
「地獄からの生還」に泣いてる女子もいた。
「お疲れー!」「よっしゃー!」
全員がスコールの瓶を持って乾杯した後、私はとりあえず顔のドウランを落とそうと、洗顔フォームを持って廊下の水道へ向かった。
体育館からガールズバンドらしき音が聞こえる。
さっきまで越境応援で歌ってくれた女子。
彼女は本来自分がするべき「奥居香」に戻っていた。
#私の勝負曲
【参考文献】
・Wikipedia「ラッツ&スター」
・Wikipedia「プリンセス プリンセス」
・Wikipedia「1994年の音楽」
・Wikipedia「スコール (飲料)」