納涼(裏ヤ)

 もう9月ですね。日に日に涼しくなっているとはいえ、未だ30度を超える日もあり、なかなかに残暑厳しく感じられます。私の職場におきましては自席周辺だけ空調が効いておらず、妙に蒸し暑く感じるなど、少々過ごしづらく思っているところでございます。
 そういえば、夏の風物詩の一つには「怖い話」というものがあったかと存じます。(背筋に走る怖気でもって涼を得ようという試みと認識しておりますが、如何せん狭い見識でございます、間違いがあったならば誠に申し訳ございません。どうかご寛恕くださると幸いです。)未だ日差しの厳しい折、少々挑戦してみたく思い、本日はこの場をお借りいただきたく思います。
 もっとも、私自身、本当に怖いお話、というものは苦手なものですから、これから綴ります物語につきましても、可能な限り期待値を下げていただきたく、またそうしたお話が苦手な方におかれましては、どうぞ肩の力を抜いてお読みいただければ幸甚です。

 さて、これは私が知人から聞いたお話です。しかしながら、知人もまたその知人に聞いたお話、ということで、どなたの物語であるかは全く判然としないものであります。ええ、ですのでまず初めにこのお話の主人公を、仮にNと置くことにいたしましょう。Nという人物は、而立を超え不惑に至るにはまだ幾年かの猶予がある年の頃で、日々程々に仕事を熟しながら配偶者を迎えて暫くを過ごした、そうしたごく一般的な、ありふれた普通の生活をしている者でありました。
 ある日、Nは家計簿を見、給与明細を見、また預金口座を見、最後に二間続きの部屋をぐるりと見やり、ずうっと考えていたことを、ついに計画に移そうと思い立ち、配偶者を呼び止めるわけです。
「やあきみ、そろそろ『家を買う』ことを考えたいと思うんだが、君はどうだい」なんてね。配偶者の方も「ああいいですね」なんて答えるわけです。きっとこれから家族が増えるだろう、なんて素敵な未来予想図を描いて、そこからは侃々諤々、素晴らしい未来に向けた第一歩の『家』について、希望する条件なんか詰めたりして、その興奮のままにとある不動産屋に駆け込むわけです。
「こんにちは。実は家を買いたいと思っているんだが…」そうするとにこにこと愛想の良い不動産屋がいうわけです。「それは良いことです。ええ素晴らしいことですとも。」
 そうしてそこからはとんとん拍子、出した条件にぴったりの、何だか素敵な物件の間取りや設備や何だかを書き込んだ物件が出てきて、「ここにしようか」「ここが良いね」「ええ、ええ、素晴らしいことでございます」!最後に算盤を弾くわけです。ぱちぱちぱちぱちはてさて占めておいくら万円でございましょう。勿論一括などとは申しません!頭金がこれこれで月々の返済がいくらいくらで、なんて立て板に水のごとく、にこやかなセールストークが続きます。さあご印鑑のご用意は宜しいですか。ございます?それは素晴らしい!では契約なのですが、その前に、必要な書類がございます。その書類というのはこれこれこれでございまして、お役所なんかで発行していただくのですが。おや、日中はお仕事でお忙しいので難しい?よござんしょうよござんしょう。そうしたお忙しい方のために、弊社では代理で書類を取得するサービスがございまして、もちろんお代はいただきません。ああそれからこれは秘密のサービスなのですが、お客様だけに特別にお教えしましょう。ちょっとした裏技がございまして、もしご希望されるならこちらのプランよりもさらにお得に購入が可能ですが、如何されますか?利用される?それは大変結構なことでございます!ええ、ではこちらのサービスを利用されるならばこれこれこれにご署名とご印鑑を。それからご身分証のコピーを取らせてくださいな。ながれるように差し出されたものに言われるがままにさらさらさらり。この手続きの煩雑さも何のその。なんせ夢見るマイホームを手に入れるためのちょっとした試練でありますので!
 こうしてNとその配偶者は、素敵な未来を夢見ながらそこを後にするわけです。いや素晴らしいまさしく順風満帆と言ったところでございます!

 ところがところが、でございます。このまま何事もなく順調に進むかと思われたこのお話、大きく頓挫してしまいます。と、言いますのも、このお仕事を依頼していた不動産屋さん、次にN氏が配偶者と訪れた時には態度が一変、なんだかとっても横柄なのです。担当者が不在で代理の者が対応したから、としてもあまりにお粗末に過ぎ、N氏も配偶者も大変に気分を害してしまいました。契約自体は結んでいなかったこともあり、お話はまっさら白紙に、N氏と配偶者は顔を見合わせながら別の不動産屋さんを探しましょうと頷きあいます。ちょっとした躓きはありましたが、そこはそれ、次への勉強になったね、といったことでN氏と配偶者の中では終わった話となりました。

 はてさて、時は経ちましてまたN氏も配偶者も不惑へと一歩歩みを進めまして、無事にお引越しも終わりやっと生活が落ちついてきました。その頃には日中は汗ばむようになっておりましたが、季節の移ろいを感じながらも日々をそれなりに頑張って生きているN氏とその配偶者のもとに、一通の手紙が届きます。手紙には住民税の納付をしてください、なんて書いてあるわけです。N氏は首を傾げます。N氏も、その配偶者も、住民税は会社の給料から天引きされています。それなのにこんな手紙が届くなんて、とN氏は大いに気分を害します。間違って送ってきたに決まっている、とN氏は確信していますが、ほんの少しだけ気になってしまい、N氏はお役所に行ってみるわけです。
「お宅は間違っていますよ。私はきちんと給料から税金を納めているのですから」「ええ、ええ、勿論です勿論です」語気の荒いN氏に、役所の人間は宥めるように言います。意を得たり、とばかりにN氏が口を開き、発声するまでにカウンター越しから声が続きます。「しかしね、別の収入はないですか。ほら、株式とか副業とか、別の会社様にもお勤めとか。」「そんなものはない!あるものか!」N氏は大いに憤慨します。自分が仕事で如何に拘束されているのか知らないのか!知るわけがないことを理解しつつも、言葉には棘が大いに滲みます。「いや、しかしですね」カウンターの相手は間誤付き、返答には全く要領を得ません。「埒が明かない!分かる人を呼びなさい!」そうして叫ぶN氏のもとに、別の職員がやってきます。「お客様、お客様、これこれこういう会社に覚えはございませんか?」N氏の全く知らない会社です。「いいや。ないね。」「そうですか。では、不動産会社のなんとかかんとかさんはご存知ですか。」N氏は驚きました。それは、N氏と配偶者が利用しないことにした、あの不動産屋だったからです。「それは知っていますが」「なるほどなるほど。ええ、少しご覧いただきたいのですが」そうしてカウンター越しに見せられた書類は、書いた覚えのない収入の申告書でありました。ご丁寧にN氏が知らない会社の源泉徴収票までついています。N氏は愕然とします。「これは、いったい、どういったことなのですか」「こちらといたしましては、委任状をご持参になった、貴方様の代理人様から、収入の申告受理と証明書の発行とを申し付けられましたので、対応したのみでございます。書類に不備はなかったので、追加での申告は本来税務署にて行っていただくものではありましたが、どうしてもお急ぎということで、こちらにて仰せつかりました。勿論、税務署にてご申告いただくようご伝言の依頼もさせていただきましたが。」お役所からの説明なんて右から左、何を言っているのだかよく分かりません。N氏は確かに家を買おうと思いましたが、存在しない収入を申告する予定なんて全くありませんでした。大いに混乱するN氏に、カウンター越しから気の毒気に顔を顰めた職員が言います。「世の中には、ローンの条件をより良くするために、虚偽の収入を申告する、などという業者もあるようですね。こちらとしては誓約書までいただいたうえで申告を受け付けておりますし、この収入を無かったことに、というのはとても難しいのですが…。」
N氏はただただ住民税のお知らせを握りしめて震えるしかありませんでした。

 …以上が私が知人から聞いた怖い話でございます。
 え、怖さが分からない、ですか。そうですね、そうであればその方が良いでしょう。個人的には、30~40歳の人間が家庭を持って家を買って…というのを一般的と評しているところとか超怖いと思いましたけど…。あと、「夫妻」とかうっかり書くと夫が先なのはおかしいとか怒られるらしいので頑なに「N氏と配偶者」にしました。怖いので。うっかりミスってたらどうしよう、という怖さもあります。
 
 はてさて皆様、涼は得られましたでしょうか。これはお勧めなのですが、皆様のお手元にきっとある、エアコンのスイッチをいれるなどしていただければ、きっと快適にお過ごしいただけるものと思います。それではこの辺りで。

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