どこぞの社会人の憂鬱な木曜日(裏ヤ)

ピ  ピピ ピピ ピピ・・・

 規則的なアラーム音が、本日3分ぶり幾度目かの起床時間の到来を告げる。無慈悲な鶏の声である。窓から降り注ぐ日差しも、いい加減に起きろと急かしているようだ。布団に潜り込んだまま、相変わらず仕事を果たし続けているスマートフォンを手に取り、碌にピントの合わない眼で漸う時刻を確認する。……流石に起き上がらなくてはまずい時間である。

 心底怠い、動きたくない、せめて昨日もっと早く寝ていれば、もう今日休んで良いんじゃないかな、なんて考えながら、朝食のシリアルに牛乳を注ぐ。いい加減、汁椀にシリアルの組合せはどうなんだ、さっさと食器を買い足せ、と思う意識の高い(この程度で?との失笑の声が聞こえてきた。御尤もである)自分は、面倒だし味は変わらないしどうでもいいや、という物臭な自分の声に一瞬でかき消された。

 くだらないことを考えていても、毎朝のルーティーンを熟せていたようで、気が付けば部屋を出る準備は着々と進んでいる。思った端から自転車の鍵が見当たらない。どこだ。ああ、コートのポケットだ。今日は可燃ごみの日のような気がするが、ゴミ捨て場まで寄っていたら遅刻しそうだ。まだ虫の湧く季節には早いし、溢れるほどに溜まっているわけでもない。数日後の自分に期待しよう。半分ほど溜まったごみ袋から目を逸らす。玄関に備え付けになっている鏡が、寝ぐせの存在を教えてくれた。知るか。自転車漕いでるうちに風でどうせぐっしゃぐしゃになる。部屋を出る時間を告げるアラームが改めて鳴きだす。いらいらとアラームを止める。毎度思う、どうしてこんなにアラームを設定するんだ。昨日の自分あてに舌打ちの一つもかましながら、荷物を持って飛び出す、ような元気は木曜日のくたびれ切った社会人にはない。振り払えない眠気と一緒に部屋を出て、希望の欠片もない一日が始まるのを感じる。

 さて、自転車通勤の良いところは、満員電車に揺られなくてもいいし、小回りが利くので道路事情の影響を受けにくい、ついでに体も動かさざるを得ないため、次第に目が覚めて言ってくれる、そんなところにあるのではなかろうか。代わりに、底辺を這う身体能力と体力を朝っぱらからを使い果たしにかかっている面はある。自転車で激走するような時間に起床するよりも余裕をもって起床時間を設定すべき、とのお声は本当にそう。だが、私にそれができるかと言われれば不可能に決まっているので、本日もぜえぜえ言いながら自転車を漕いでいる次第である。

 さっきあの学校のチャイムが鳴った。今、この地点にいるわけだから、多分まだぎりぎり間に合う。あの信号はそろそろ青に変わるから、その間に渡り切れれば。

 遅刻するのではなかろうか、それならもうゆっくり漕いでも同じでは。との思いが浮かぶ端から切り捨てつつ、職場に向かう道中。縁石に座り込むご老人が視界に入る。「すみません」道行く人に声をかけているようだ。「すみません」朝のクソ忙しい時間である。誰も止まらない。「すみません」通り過ぎる。遅刻は宜しくない。……誰かお人よしが止まっているのではなかろうか。振り返る。動きなし。……遅刻する、が。どうせ次の信号はまだ赤だ。一声かける時間位はありそうだ。これで体調が悪くて座り込んでいて、誰も声を掛けなかったので老人が死んだ、とか、寝覚めが悪すぎる。自転車から降りて、ご老人の前まで引き返す。引き返すまでに誰か別の人が解決してくれないかな……しないな……辿り着いてしまった。

 「大丈夫ですか」

 咽喉が碌に機能していない時間帯のかっすかすの声をかける。聞き取れなかったらごめんなさい。でも頼むから何かこう、一瞬で解決できるような話であってほしい。少し表情を緩めたご老人は、「****病院に行きたいんだけど道が分からなくて……。」と困ったように言う。安心してほしい。私にも分からない。というか、この職場になってから数年は経つが、ほぼ自宅との往復しかしてないのでどこになにがあるか、なんて碌に把握していない。勘弁してくれ。
 「ここなんだけど……」と言って見せてくれたのは診察券である。前も言ったことあるんなら、その記憶で何とかなりませんか。「以前は救急車で運ばれたから……」それは無理ですね。大変でしたね。お疲れ様です。
 さっきから最終兵器グーグル先生に聞いてて、えーと、画面ではこんな感じなんですけど分かりますか。スマートフォンを差し出す。最寄りのバス停はここみたいですけど……路線わかんないですごめんなさい。画面上を指で指し示すが、ご老人の表情は晴れない。「近くの目印とか教えてくれれば歩くんだけど。」手前に大きめのスーパーあるんですけど分かりますか。「土地勘なくて……ごめんさいねぇ。」いやもう私がごめんなさい。私じゃなくて地元の人立ち止まっててくれ本当に。というか方向音痴に道を聞かないでくれ頼むから。半泣きになる。「この道を行けばいいのかしら。」ひぃ。この道は地図で言うとどのみちであなたが差しているのはどの方角ですか。さっぱり分からない。というか、普段初めて行くところには概ねグーグルさんの指し示す方向と逆に進んでしまうタイプの人間にそんなこと聞かないでほしい。自分が動く分には自転車だし少々間違ってても自身とグーグル先生に悪態を吐きつつ速攻引き返すけど、このご老人にそれをやらせるのは気が引けまくる。あーあ。誰か別の人と待ってくれないかなー。というか私が止まっちゃった所為で他の人に聞きづらくなってしまってそれは本当にごめんなさい。ああでも。

 ちょっとだけそこで待っててください。一声かけて、まっすぐ進む。グーグル先生が指し示す現在地は、ご老人の目的地に近づいていく。よっしゃ。方角はあってる。

「この道、まっすぐ行くと大きめのスーパーがあるので、そこで右に曲がってください。で、近くになったら通りがかった人にもうちょい詳しく聞いてください。」

 私が出せるベストアンサーがこれです。役立たずでごめんなさい。ご老人「こちらこそお仕事もあるだろうにごめんなさいね」と笑ってくれた。大丈夫です。すでに遅刻は確定していますので。後半は胸の内に留めつつ、声を掛ける。気を付けて行ってきてくださいね。「ありがとう。まっすぐ行って……スーパーで左ね。近くでまた聞いてみるわ。」

 ……はい、もうそれでいいです。そのスーパー周辺なら多分人多そうなんでそこで聞いてください。というか私が右左間違えてる可能性もあるしそっちが正解なのかもしれないし!方向音痴のコミュ障にはそれを訂正する気力はもう残っていないのである。やっとこ腰を上げて歩き出したご老人の「いってらっしゃい」を背に、職場への道をのんびりと進む。

 遅刻って、確定した瞬間に最早無敵になるよね。あ、桜キレイで素晴らしい。仕事はクソだしやる気もないが、世界はそんなに悪くない、かも、しれない。

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