なぜゲーム作りをまるごと理解できる人が増えないのか?
ゲームを作っていつの間にか10年ほどたつが、意外に表題の問題が解決されないどころか、予算が増えるに連れて難しくなっていくので困る。
こんな話題があった。
まず、話をする前に私のポジションを書いておくと、元エンジニアのゲームデザイナー(ゲームのメカニクスを考える人)/ディレクターだ。新しいシステムを作るのは得意、アート系は苦手だ。
研修でのゲーム作り
私も過去に所属している会社で、新卒教育としてのカジュアルゲーム作りや、今の会社でも似たようなことをしていたりするが、「やったできた」以上のものを得るのは難しいと感じる。
ソーシャルゲーム初期のガラケーの時代は、予算が低く試行錯誤ができた上で、リリースをすればヒット率高く、売上が立ったので良かった。みんな施策や企画を自主的にコミットして、結果成功した人は成長できた。自分の足りない視点を補うことができ、全体像を理解し何がよいのか何が足りないのかどうすればよいのかを考えることができた。
一方、研修でのゲーム開発は、売上成果よりも形上ゲームぽいものが完成することが優先される。売上がご祝儀以外で立つことはあんまりないし、ある程度それっぽいものができたで現場に送られる。意味がないことはないが、ゲームが作れるようにはなっていない。
私も若い頃は、自分はモチベーションが違うとか、自主的やっているとか考えていたものの、私はソシャゲ初期の波にのってある程度の経験ができたというのはただのラッキーである。もちろん努力はしたし、考えたりもしたものの、時代の影響を無視してすべて自分の手柄にするには難しいものがある。
ゲーム会社での今の若い子を見ていると、環境としてとてもむずかしい時代だなと思う。なんせ1本作る予算が高い。すでにベンチャーでは出せる金額ではなくなってきたし、大手でもかなりしんどい額である。その結果、過去に結果を出したベテランに再投資され、ベテランがよりベテランになるサイクルになっている。この人はかなり才能があるなという人でも、新規のディレクターに到達できるひとはほとんどいない。そのうえで現状の市場で初回から成功させるような人は当然殆どいない。これでは、どれだけ下積みをしようが、ゲームを作れる人は増えたりしない。
とはいえ、ゲーム作りをわかっている人を増やすといいものが作れるようになるのは間違いないので増やし方を考えてみることにする。
なぜコロプラ社はクマザベアーをやめたのか?
内情はしらないので、想像となる。あるところまではゲーム作りができる人が増えて作りやすくなったのだと思う。それがアドバンテージになって、市場で戦えた。ところがある一定のところで効果がなくなり、逆効果になるようなタイミングがあったのだろうと想像する。
タイミングは規模の拡大期だ。規模が拡大すると、大体のプロジェクトが10人以上のところで中央集権的なディレクターが強化され、サブチームが生まれ、物量に対応できるようにトップダウン体制に近くなる。そうすると、自然と全体を見る必要がない人、見えないほうが都合がいい状態というのが生まれてくる。作業者っていうやつだ。この割合が増えるに連れて、連絡系統が強化され、末端はある種の労働集約モデルになる。
こうなると、すべての人がすべてを理解をしていると話し合いが終わらず、意見がまとまらず、作業をやらされているだけの全体が見えるひとは不満が出てプロジェクトをうまく進めるのが難しくなってくる。そしてカジュアルゲームとはいえ、一人の教育の3~6ヶ月掛けるというのはそのままコストが掛かる。コストを掛けてうまく行かなくなるのは馬鹿らしい。なので辞める。
また同時に、カジュアルゲームの市場の飽和が起き、作ったゲームがワンチャンでヒットしてそこから抜擢されるというラインが消えたのではないかと考える。こうなるとヒットカジュアルアプリで稼いでいたユーザーが確保できなくなるため、売上が上がらない教育のみのコストとなったのだろうと思われる。
さらに他社も競争で似たような取り組みや、研究をして開発レベルが追いついてくると更に優位性が失われ、効果が薄くなる。
新規性のある確実性のない実験作を作るチームはなぜ消えてなくなるのか?
こうなると利益をすぐに生み出さない「新規性のある確実性のない実験作を作るチーム」(例:R&D)が良く立ち消えるのとほとんど同じような現象なのだと思われる。「新規性のある確実性のない実験作を作るチーム」が良く消えるのは、会社もうまくいく時うまくいかないときがあり、うまくいかないときに売上が立っていないチームはぶった切られるのだ。
大学の研究室も似たような構造で、たまに研究で発見するかもしれないが殆どの場合何も起きないので、予算はカットされる。競馬で勝利馬券以外は買わなければ絶対に儲かるのと同じ仕組みだ。
ゲーム業界でも似たような話は何度か聞いたことがある、「ヒットアプリ企画以外は作らないで却下」という未来予知が必要な状況というのがよく生まれる。ちなみに合議制でOKが出た場合だいたい今の瞬間に出せば売れるであり、制作が終わった1年半後は「それ古いね」である。
人類は、多産多死に体感が最適化されておらず、安定して成功を望む傾向があり、失敗することが多いが大成功したらすべてが取り戻せるみたいなタイプの賭け事にお金を突っ込みにくいのだ。売上が下がった!競馬に全部突っ込もうという人はなかなか見かけない。
という賭け事があった場合、期待値で言えばAのほうが明らかに良いにもかかわらず、Aはあまり選ばれない。人間は10回の痛みを堪えて20倍のリターンをとろうという選択肢をあまり選ばない。なぜならば、成功はドーパミンがでるが失敗は痛みを感じるからだ。これは成功の量に正比例をせず、体感として感じてしまう。ゲームで成功率が現実から比べると異様に高いのはこれが原因だ。理論的にはプロスペクト理論だ。
というわけで、長期的な視野では役にはたつのだけども、今すぐ利益を生まないものは消えてなくなる。
なぜゲームづくりがまるごと理解できる人が増えないのか?
今まで出した話をまとめると以下のようになる。ゲーム業界の抱える慢性的な課題である。
ゲーム作りをどうすればまるごと理解できる人を増やせるか?
いくつか案はあるが、すぐに人が増やせる案ではない。
A,Bは近年ではスマホやUnityやModなどで、だいぶ状況は整いつつあるが、Cはあまり体系化されてはいないように思う。個人クリエイターが活躍して有名人などになり、それを目指すようになってくれるとありがたい。Dは、モチベーションの合う人であれば良いとは思うが、商業ゲームと同人ゲームはモチベーションが違いすぎて、無理というほどではないが難しいと思う。
そして肝心のEだが、一つの組織で学習するのは非常に難しいと感じている。ゲームデザインがある程度できたとしても、ゲームづくりでのボトルネックはたいてい予算、スケジュール、チーム、マーケティング、市場である。それは一つの会社で経験することが難しく、仮に経験をできて成功したとしても、組織に依存をするため継続性が難しい。
なので、ゲーム内ゲームデザインとゲーム外ゲームデザインが要求され、興味がない政治みたいなことを始めないといけなくなるわけだ。なので、複数の組織を知って、現実を認めて、理想を実現するための協力が必要になる。
そんなわけで、知っていること、今まで学んだことを、そしてより学ぶためにアウトプットしてみるしだいだ。
全体感を得られる学習モデルとして、第一世代と第二世代というモデルを作りその違いを書いています。
AIを使って全体感を得られる手段が登場したいので記事を書きました。