鬼滅の刃とはなんなのか?ネットワーク社会での英雄譚
鬼滅の刃の映画を見てきた。内容はすでに漫画で知っていたのだけど、それでも想像してなかった衝撃を受けた。とても良かった。
映画版を見たところで、ちょうど読んでいる本がリンクをして、こういうことかなという形になったので書いてみようと思う。この文章は、私が鬼滅の刃を読んでの感想考察であり、正しさや流行った理由ということを説明するものではない。
また、いくつかの考察も参考にしている。
この記事はネタバレもあるので、すでに読んでいる人か、気にしない人だけ読んでほしい。原作23巻までを読んだ考察となる。
鬼滅の刃のテーマ
鬼滅の刃は、読めば面白いことは分かるが、変わった物語の形をしている。
主人公の炭治郎は、ビジョン型、リーダー型、能力発揮型のタイプではない(正確には能力は発揮出来てはいるが、状況をどうにかしているだけで状況をコントロール下に置けていない)。なんだったら、リーダーをやっている炭治郎が想像出来ない。能力を発揮していて、鬼を倒していくので、取り立てられて柱になるかと思いきやならないし、なんだったら成長の途中でラストバトルが始まってしまう。もちろん少年漫画の主人公ぽい特性もなくはない、ワケアリの血筋や特殊な妹、思い出す技など確かに少年漫画ぽいことはやる。だが、それですら覆せない状況に翻弄され続けるのだ。
では、鬼滅の刃の物語のテーマとは、何だったのだろうか?
優しさ?家族?それとも人間讃歌だろうか?
私は、鬼滅の刃は、全てを奪い続ける鬼と、全てを与える炭治郎とその仲間たちの対比の物語だと考える。
鬼は、人の命を奪い、永遠の命と、首を切ったり、陽の光を浴びる以外では死なないという特性を得る。鬼のボスは鬼舞辻無惨一人で、彼のみが血を与えることで鬼を増やすこと(上弦はその紹介ができる)や、鬼の思考を読んだり、裏切ろうとした鬼を滅ぼす事ができる。そこには当然人権なんてものはなく、彼の絶対王政である。彼は気まぐれに人の命を奪い、気まぐれに部下の命すら奪う。わかりやすく悪であるし、美学すら無い。美しく死ぬくらいならば、意地汚く生きることを選ぶし、すべてが自分のためである。
人は鬼たちに対抗するために、組織を作って対抗をする。それが主人公の所属する鬼殺隊なのであるが、当初は鬼という厳しい現実に近づくがゆえに、みんなトラウマを抱え、どこかしら鬼に近い考えになっている。そこには、鬼に親族や仲間が殺された過去だったり、過去のしがらみだったりがある。
そこに炭治郎は現れる。彼は、鬼に妹を除いて全てを奪われる。だが、彼は鬼のような考えには至らない。それは、彼のそもそもの性格上の特性もあるだろうし、そのときに起きた出来事(妹をなんとかしないといけない状況や周囲の人に助けられること)もあるだろう。そして彼は「与え」だすのだ。それは、周りに波及をし、やがては鬼殺隊全体に与えるネットワークができる。ラストの展開に至っても、炭治郎自身はまだ有望な若い中堅くらいの立ち位置だろう。それでも、彼の与える影響力は、物語を動かし、全てを奪う無惨を倒すことになる。
これは、勧善懲悪の物語なのだろうか?または、子供向けの教育的な因果応報な物語なのだろうか?私はちがうと思う。私はネットワーク時代のGiver(与える者)の物語だと思う。
ネットワーク社会のGive & Take
Give & Takeという概念があるのはご存知だろう。
この本は、相手に何を与えられるかを考えるひとGiver(ギバー)と自分の利益を優先するひとTaker(テイカー)と損得バランスを取る人Matcher(マッチャー)のことを追跡してみた本だ。
短期的にはTakerが他人を犠牲にして、良いように立ち回るが、長期で見ると、Takerは有用だったネットワークが切れ、うまく行かない傾向があるそうだ。逆にGiverは、短期では与えすぎて成績が悪いが、長期ではネットワークを広げていき、良好なネットワークを作りやがて成功するという。
Giverの立ち回りは、まさに炭治郎だと思う。鬼滅の刃の最後の展開では、炭治郎を中心としたGiverのネットワークと、無惨を中心としたTakerのネットワーク同士の戦いと見ることができる。
一般的な少年漫画の主人公も同じだと思われるかもしれない。主人公は基本的に強かったりするので、強さを用いて与えることが多い展開にはなりがちなのではあるが(例:モンスターに襲われている人を助ける)炭治郎の与えるは、そういう与えるではない。余っているリソースを与えるというものではなく、今自分が足りなくても、相手の欲しい物を与えるなのだ。炭治郎は、強さに関して言えば常に足りておらず、逆に周りの人から助けをもらっている。
また、主人公はGiverとして動くが、それが直接フラグ回収されてすぐに効力を及ぼすわけではない。Giveの効果がフィードバックになって返ってくるのは、ずっとあとであるし、そもそも炭治郎は見返り自体を気にしていない。こちらもよくある物語だとすぐに改心したり、すぐに回収したりするので、よくある短期の物語の目的を持っての駆動という形に見えるが、炭治郎は手段として与えていない。目的として与えている。鬼滅の刃の物語の流れは、その場の強さで戦い、その次の戦いでGiveは多少影響を及ぼすという形になっている。絆で連携、敵を倒す!とか惚れられて仲間になるみたいなわかりやすい力ではなく、Giveはある種のリアリティをもった弱い力として書かれている。
また「GIVE&TAKE」の本の中では、日本人には他の国と比べてGiverが多いこと、ネットワークが発達している現代においては、フィードバックが返ってきやすいためGiverが成功しやすいことが書いてある。
この本の内容と鬼滅の刃をあわせてみると、一つの仮説が生まれる。それは、今のネットワーク社会に適応したマインドモデル(自尊心モデル)が求められており、そのモデルとして炭治郎というのが合うのではないかという仮説だ。
鬼滅の刃では、舞台は大正時代ではあるが、鳥のネットワークだったり、術のネットワークだったりで、リアルタイムで通信ができるようになっている。それはあたかもスマホのPUSH通知であるかのごとく、誰がどうしたのかはすぐに伝わる。主人公が、すべての強敵を倒すのではなく、ネットワークで協調をして倒していく様子が描かれる。他の漫画で行われる、情報の齟齬や、衝撃的な事実を伝えることでのダウンタイムはほぼない。バンバン進むし、情報の齟齬ですれ違ったりはしない(一部例外もあるが)。
それは、時代はちがうが通信状態が現代に近い状態であることを示しており、ネットワーク社会の物語だと言えると思う。特徴的なのが、複数の強者が、上下関係ではなく協調的に動いて問題を解決するのだ。それはあたかも、複数の主体がネットワーク上で協調して問題を解決するのと似ている。
単行本で話の間に書かれる裏話と、舞台の下での鬼殺隊員の話は、なんでこんなに書かれるのだと思っていたが、ネットワークの広がりを表現するためと考えると非常に納得をするのだ。最終巻で、彼ら支援者の遺書には炭治郎と禰豆子の幸せを願うことが多く書かれていたという。
この物語はGiverネットワークの起点となる炭治郎が、Takerネットワークの起点となる無惨を倒すという物語なのだろう。炭治郎はネットワークの起点ではあるが英雄(アルファ)ではない。ネットワークがネットワークを倒す物語だと私は解釈をする。
ネットワーク社会の闇、Takerネットワーク
現代では、正しさや強さとは別に、利己的(Taker)であるか、利他的(Giver)であるかでネットワークが作られる。ほとんどのひとは、すごく利己的でもなくすごく利他的でも無いという立ち位置にいるが、ネットワークのエコーチェンバー効果(狭い範囲の意見が増幅される効果)にさらされた結果、ブラックホールのごとくTakerになってしまうというネットワークのバグのような状態が存在する。
鬼は、強さを求めている人に、鬼になれば無限に修練が出来て強くなれるよと誘うのである。鬼殺隊の人の中には、鬼を倒すために強くなって来たにもかかわらず、目的を忘れたり、嫉妬に溺れたりして、鬼になる人が現れる。それはあたかも、現代での主義主張を持って様変わりするさまや、金持ちや有名になって様変わりするさまを思わせる。
現代において、それが良いものなのか、悪いものなのかを判断するためには、ネットワークの主張の正しさではなく、ネットワーク外部への振る舞いで本質を判断するのが良いのだろう(開いた価値観で与えているかどうか)。TakerはあたかもGiverであるかのように偽装をして広がる(あなたのために、平等や弱者のために)。なので本質的にGiverなのかTakerなのかは、ネットワーク上の振る舞いを観測しないとわからないのである。そして、Giverと同じようにTakerも感染するのである。
現代は主張の正しさ(鬼滅でいうと強さ)は、正しくなくなってしまった時代だと思う。残念ながら、平等、弱者、傷ついたという理論で、他の人を殴りに行く時代となってしまっている。主張は、もはや刃物と同じで力であり、力の行使方向のほうが問題となるのである。
鬼滅の刃では、強さ軸の他にGiver-Taker軸があり、その中での遷移とネットワークとして形成していくさま、その後ネットワーク同士のバトルという展開となっている。
親子・兄弟関係から生命の連鎖へ
鬼滅の刃は親子、兄弟関係が頻繁に出てくる。炭治郎は、父親は病死し、母親を鬼に殺される。煉獄杏寿郎は、母親が早期になくなり、父親は心が折れ突き放される。
(ネットワークにとって)よい親はGiverである。悪い親はTakerである。登場キャラクターの親子関係もすべてが良好ではない。映画で出てくる煉獄杏寿郎は父親が心が折れており、母親は強いものは弱きものを助けるものだという心情を語り亡くなってしまう。なので、どちらのせいにもできるし、生き方の選択は本人が行っているという書き方がされている。
良い親から、良い子が生まれるという物語は書くのは楽ではあるが、金持ちの子供が金持ちのような絶望がある。鬼滅の刃では、兄弟が違う道を選ぶというのを通して、何があったから自分はこうであるという単純反応モデルではなく、何が起きようとも選択肢は自分が持っているという選択権利を表現している。
ラストバトルでは、炭治郎は無惨の力を得た上で、陽の光への耐性も得て無惨を超える力を手に入れている。そのうえで、その力を選ばず、今までの自分の進む道=「人間としてGiverとしての炭治郎」を再度選んでいる。
また、(よい)親子の繋がりをGiverの方向で書かれており、エンディングでは子孫の話が展開された。通常ならば、エンディングではそのキャラクターの先の展開が書かれることが多く、生命の連鎖にコンセプトを置いていない作品であればそうしただろう。
これも鬼の永遠の命は得られるけど、子孫は得られないという形の対比だろう。親が子供を育て(Giveし)て、それを連鎖させて生きていくというのが生命であり人間というのが主題なのだろう。
逆に鬼は自分が被害者だから、生き残るためには仕方ない。生き残るためには奪っても良いという理論で考えている。
こちらの記事でも似たような主張がされており、今の世界観と殺伐とした世界観がリンクをしているのではないかという主張がされている。
力と生き方(行使ベクトルのポリシー)
どんなひどい出来事であっても、生き方は自由であり、GiveかTakeかは選べるという場面は、作中にかなり出てくる。強さを持ったからすべてが解決するわけではなく、むしろそれをどう行使するかで悩むのだ。
ネットワーク社会でも同様の問題は発生する。力(フォロワー数とか利益とか)を手に入れたあとで、情報と感情の海にさらされて、私が何者であるか(どんなネットワークノードなのか?)が問われるのだ。周囲が詳細に見えすぎる事によって嫉妬や、上位の人の真の強さなどがみえたり、それに絶望を覚えたりする。そして、かつての性格から変質していってしまうことがよくある。
なぜこうなってしまうのだろうか?
人間の自意識は、これほどのネットワークに対応していないのだ。人間の遺伝的には数万年前と変わらない。150人。これが人間の平均的な名前を覚えておける上限、つまり自然に関係性が作れる上限である(ダンバー数という)。つまり、人間は村社会程度を暮らすのに最適化されており、数千人や数万人といった関係者の数には自意識が対応しきれないのだ。
なのでメタ的に管理を行い、フィルタを作り、マインドを形成する必要が出てきている。ここに、鬼滅の刃が一つの生き方として、すぽっと入ったのではないかと思うのだ。もちろん、面白さや展開、キャラクターなども良いとは思うのだが、これだけ時代に受け入れられたのは、本質的なニーズがあったのではないかと考える。私は、それの1つとして、ネットワーク社会のマインドモデルの提供ではないかと考える。
こちらの記事では、やや近いことを言っており、子供としての参考になるモデルを無意識に探していることが考えられる。
こちらでは、実際に親の立場として、教育によいという話が書いてある。
事実として、小学生の憧れのキャラクターとして鬼滅の刃のキャラクターが入っているようだ。
なんにせよ、現代の子供世代において、1つのヒーローモデルのバリエーションとして確立することは、共通言語として話をすることができるようになるため、とても良いのではないかと考える。
作者とGiver性
作者は、あとがきなどで、非常に謙虚である。これは売れてからも変わらない。個人的には、これだけ売れて調子に乗らないのは凄いなと思う。
以上が最終巻のあとがきからの引用だが、一貫をして、いろいろな人に感謝をしている、むしろ色々頂いて学んだという内容だ。作者がGiverだからこそ、Giverの物語がリアルにかけたのではないかと思う。もちろん作者は聖人ではない。売れてない頃のテキストには軽い自虐だったり、嫉妬みたいなものもチラホラと散見される。
それでも、このような生き方を選択する作者なのだろう。
まとめ
鬼滅の刃から、こういうことを私は読み取った。
・鬼滅の刃は、全てを奪い続ける鬼と、全てを与える炭治郎とその仲間たちの対比の物語
・鬼はすべてを奪い、ほぼ無敵である。無惨のためのネットワークを構築
・炭治郎は、与えることによって、与えるネットワークを構築
・人の営みも、親から子への与えるネットワークを作っている
・Takerネットワークは、ネットワーク社会の闇
・主張の正しさはもはや正しさではない
・Giverネットワークは、ネットワーク社会でのマインドモデルとなり得る
・GiveもTakeも常に私達の選択肢の中で選ばれる
・傷ついたから、傷つけてよい権利を得られるわけではない
・Giverは、そういうキャラだから選ぶのではなく、毎回自分がしたいから選んでる
・Giverのリアルな物語が書けたのは作者自信がGiverだから
・作者は聖人ではなく、我々と同じように嫉妬や自虐もする
このテキストを読んで、こういう読み方もあるのかと思ってもらえたり、面白がってもらえるとありがたい。
記事を読んでいただいてありがとうございます! 良かったらサポートしていただけると大変嬉しいです。