Memories of Nicotama
クルマの点検や修理等をお願いしてるとこが上野毛にあるので1年に1回位の割合で行き来する。代車は車幅が大きい車種しかないのでウチの駐車場は立体(事実上、立体使用はやめてるんだけど)でパレットの寸法の制限がある。そのパレット内の寸法より大きかったりするんです、代車が。多分それはボデイの寸法でタイヤはパレットの内側ギリで入るんじゃないかと思うけど、慣れない大きさの車に乗るのもめんどくさ、ってなって片道電車にしてる。帰りは電車では、大井町線で二子玉川に行って渋谷方向へ(クルマを受け取りに行く時はその逆)。二子玉川は随分と前に友達が住んでいて、ある一時期よく行ってた。懐かしくて寄りたい気持ちはいつも湧くがいざ、二子玉川駅のホームに立つとめんどくさくてそのまま乗り換えている。
友達が住んでいたのは、多摩川と平行に流れている野川沿いを砧の方に向かった世田谷区鎌田の辺りだ。木造モルタルの二階建てアパートで二階の左端だった気がする。野川沿いのバス通りから見えて野川に架かる橋を渡ると直ぐなイメージ。だけどそれがもう正しい記憶かどうかは自信がない。そもそも同じ建物がまだあるとは限らない。とにかくそこに、高校の時の同級生Sと小中の同級生Oが2人で住んでいた。SとOは同じ学校だったことがないのだが、私や私の他の地元の友達経由で仲良くなっていた。SはN大S学部で自転車で小田急線沿線の木梨憲武の地元辺りのキャンバスまで通ってた。Oは何処に通ってたか忘れたけど(渋谷かそこらにある)マスコミ系の専門学校だったと思う。今では疎遠になって久しいがテレビ関係の業界に行ったっぽい(音響効果の収録とレーザー光を扱えるイベント会社に就職したところまでは知ってる)。
当時はSの大学の友達やバンドメンバー(*1)やらがそこをよく出入りしてた。私はと言うとO宮に室蘭出身の友達等とシェアハウス的な共同生活をしていてセツとか行ったり行かなかったりしてる頃だったかな? よーするにプーだ。多分、その頃一緒に住んでる連中がちょっとイヤんなっててO宮に帰らず二子玉のそこによく行って泊まってたんだ。何をするわけでもなく、そこに泊まってご飯食べて話をして翌日帰るとかしてただけと思うけど、懐かしい。1年に1回、そんな思い出に浸る。
(*1) そのバンドのベースのやつが付き合っていた娘が韓国籍で韓国名を名乗ってた。O宮で一緒に住んでた1人が付き合ってた娘が、付き合ってた当時は知らなかったがそいつとその娘が別れてしまってから、ひょんなところでたまたまその娘と出会った時に(いきさつを忘れたけど)台湾籍なのを教えてくれた(通名じゃなく本名を教えてくれたのだったかも。それであれ?ってなって、そう中国人よ。うち中華屋だもん、みたいな。いや、中華屋ってのも知らんかったしー、みたいな)。私は東日本の田舎育ちなので少なくとも上京するまでは在日の人を見ることはなかった(=当時。今はいわゆる在日な外国籍じゃない、東アジア以外のアジア系やロシア系(地理的に)他の外国人はきっといる。金髪の制服JKとか見るもん実家地元でも)。だから、へえー、いるんだホントにみたいに思ったかも。被差別地域も近くには多分なかったので大人のそういう言い方も話も耳にしないで育ったので差別意識や差別問題を知らなかった。今でもピンと来ない。自分の中にはあまりないと思ってる。全くないとも言わないが。
こんなカッコで出会ってたら「うち、中華屋だもん」とか言ってくれてなくても気付いたかな?いや、どうかなw
きっと幸せになりますよ(私が