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蔑んだ目を

 もう私は本当に、何もないことを抱えながら、どこにも追いやれない感情を持て余して、死ぬまでの残りの余生を過ごしていくんだなと考えるだけで非常に憂鬱である。結局、私が欲しいものは手に入らなかったのである!私が本当に欲しかったのは10代や20代前半に味わう経験由来の感情だった。それは恋であったり愛であったり嫉妬であったり尊敬であったり慈愛であったり、少し涼しくなった9月の公園で、二人ブランコを漕ぎながら、ただただ時間を忘れて話すような、そしてそれらが終わったあとの形容し難い感情。お互いがお互いに無敵だと、感じれるような全能感。私はそれをもう一度味わいたいのだと思う。恋人もできず、誰か特定の人を愛することもできず、ただ酒を飲み全てを忘れようとしていた。それは今でも変わらない。いつまで経っても私は後悔ばかりだ。“あの頃”をずっと懐古している。だってどうしようもないのだ。比較すればするほど、あの頃の純粋で感度の高い感情には及ばないのだ。今の惰性で少し計算をして判断をするようなゴミみたいな不純物の混じった感情ではなかった。ただただ“君と一緒に”だったんだ。それだけでよかったのに、今もそれだけでいいのに、あなたは最初から全てを諦めていて、私は早く飛び出そうとしていて、でも永遠に続くと思っていたし、続いて欲しいと願っていた。離れてもこの感情は変わらないと思っていた。変わってしまった。だからこれは私から私への諦念でもあるのだ。

 現実は理想に及ばない。死ぬまでの生なのにどうして、こんなにも何かを生み出そうとし、何かを得ようとするのか。なにもわからない。ただの余白。もう本当にわからないんだ。みんなの生への渇望は一体どこから来るのか教えて欲しい。まだ死ねないなという気持ちの根源はどこからきているのか教えて欲しい。私はただの生ける屍で毎日無造作に時を垂れ流しているのに。どうしたらそんなに誰かのために動くこと、生きることができるのか疑問なのだ。ただ教えて欲しい。そうすることで私は納得したい。私がなぜ生への執着がさほどないのか、みんなの生への原動力はどこから来るのか。だって先のことを考えたら、今から灰になって消えてしまう方が楽だと思う。早く誰かに縋りたい。破滅をするような恋をしたい。愛する家族が欲しいと思えるようになりたい。他者のために頑張るということをしたい。私をより人間らしくするものを必要としている。

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