24歳の誕生日というバースデーブルー
物心ついてからの私の誕生日は、祝福されるような大層なものでもなく、自分が心から嬉しいと思えることもなく、ただひたすらに悲しくて泣いて、明け方、近所の海を眺めて、落ち着いたら家に帰る。そんなひどいバースデーブルーを繰り返していた。生憎それは20代になっても変わることなく(唯一変わったのは地元を出て、近くに海が無くなったことだけ!)むしろ、現在進行形で悪化している。生きる理由のないやつが、歳を取る必要性がない。というのもあるけど、一番は「どうせ私の隣になんか、誰もいるわけないのに」である。ただひたすらにエモーショナルになるから、これ以上はもうやめて欲しい。いないものはいないと、割り切って私は生きるしかない。どうせ誰の大事な人にカウントされない人生だ。よりよく豊かに生きることこそが、私にできる最大限の復讐だ。もしくは今すぐ死ぬか。
回数を重ね、自分が他者に対しておめでとうと伝える数が少なくなれば、相対的に自分に返ってくる言葉も減っていることに気がつく。でもいくら私が相手に対して愛を注いでいたとしても、その分、返ってくるとは限らないし、私だけがその人のことを好きだという一方的な関係もある、よなあ。いくら私がみんなに誕生日おめでとうと言っていたとしても、それが丸々私にも適応されるわけじゃないのだ。もういいのだと諦めている。私はこういう生き方しかできないし、こういう生き方を選択する他になかった。(共)依存をするということも他者から拒絶のされないものだけができる特権なのだ。もう私の目から見たら、依存をするということも自分の地層より高いところに位置する。もはや土俵にすら上がれていないのだ。
結局のところ、今、私には失うのが怖いと思うものもなく、ないと困るものがあるわけでもなく、絶対に欲しいと思うものもなく、ただ、平坦に、真っ直ぐ、停滞しているだけなのだ。
こういう人生の中でのライフイベントで、己の孤独を本当に実感する、面白いくらい、きっとみんなが想像しているよりもさらに、割と強めの孤独。椎名林檎の至上の人生「自由を覚えて勝ち取った孤独」私の孤独は、こう思うことにした。だってもうそこそこ辛いし。普段、頭から無理矢理追い出していることに、こういう所謂節目の場面では考えることから逃げ出せない。もうどうにもできないところまできているのかもしれない。逆に言えば己の強みは孤独であるということだけだ。1人でディズニー行けるし。
あーあ!なんにもない!でもそれは君ではない!
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