自分の善性は愛でるくせに人の善性は見ない
電車で座席に座っているとき、
たとえば腰の曲がったおばあさんが乗ってきたとする。
(あ、席、譲ったほうがいいかな)
と思う自分は優しいと思う。
必要とする人に席を譲る、は優しいことだと信じている。
優しいことを行動に移すことは正しいと信じている。
それでいい。
そして「よかったら、どうぞ」と、席を譲ったとする。
おばあさんも「ありがとうねぇ」と言って座ったとする。
満足だろう。
いいことをした、と思って降車駅まで過ごすか、あるいは一週間、その瞬間のことを思い出して幸福になれるだろう。
問題は、じゃあ、席を譲ったその時、一体周りの何人が(席を譲ろうかな)と考えたか、知っているか、ということだ。
席を譲る前に周りを見渡して、誰か、席を譲りそうな人はいないかな。
と、見ることはあっただろう。
誰も譲りそうになかったから、おばあさんに席を譲ったのだろうか。
僕はどちらかと言えば、優しさに対して一生懸命になったから席を譲ったのだと思う。
他にも席を譲ろうと考えていた人はいたと思う。
でも僕がおばあさんに席を譲ったとき、僕は他の人の優しさに対してどう思っていただろう。
『やさしい』は早い者勝ち
落ちたものを拾い持ち主に渡すのも、席を譲るのも早いものがちだ。
じゃあ、早い者勝ちに負けた、何人かの優しさ…善性はどうなるのだろうか。
最初から無かったものになるのだろうか。
『やさしい』も、学力やお金を稼ぐ力のように、競争であるないが決められるのだろうか。
席を譲ろうかな、と思うことは優しさだろう。
じゃあ、実際に席を譲らなかった時、その優しさはどうなる?
人に見てもらえなかったらないものになる?
そして、自分以外誰も席を譲ろうとしなかったな、が本当の世界になる?
自分以外誰も譲ろうとしていなかったから譲った
ではなくて、
自分以外の人も譲ろうとしてたけど自分が一足早かったな、が、本当の世界なら?
ここまで書いたけど、
書きたかったのは別に席を譲る話じゃなくて、
行動に表れなかった優しさをどこまで想像しているか、ということ。
ずっとスマホを見ていた女子高生が、席を譲るか悩んでいたかもしれない、と考えるか、ということ。
普段話さない無愛想な同僚、クラスメイトが、たとえば心の中では誰かと話してみたいけど、話すのが苦手で、自分の面白くもない話に付き合わせて時間を取るのは申し訳ない、と思っているとしたら?
自己否定と人が苦手なんだな、という要素が目につくだろうけど、その考え方と行動は『優しい』でもいいんじゃないか。
そういう、わかりにくかったり、求めてない優しさを、果たして人は見ようとするか。
きっと見てくれないほうが多い。
人に優しさは積極的に見つけて指摘したほうがいい。
優しいよね、と言ったほうがいい。
席を譲る、は優しいことだとみんな思っている。
じゃあ、話しかけない、は優しいことだとみんなが思っているか?
思っていないと思う。その姿を愚かだと見る人もいると思う。
正直愚かだと人が人に思うことにはあまり関心はない。
優しさに見えづらいことをそれでも『やさしい』と言えるようになれ、と言いたいわけでもない。
自分の思う優しさは人から見たら優しさに見えないかもしれないと言いたいわけでもない。
人は自分以外の優しさに興味がない、と言いたい。
心の中がどれだけ優しいことを考えられる人間だとしても、それを察する人間なんてほとんどいない。
あなたは優しい人だと言ってくれる人はほとんどいない。
でも、優しい人だと言ってくれる人がいないことも、優しさを心と頭の中だけで育てて外に出せないことも、あなたが優しくない人だという理由づけにはならない。
行動に優しさが出なくても、優しさについて考えることができるなら、あなたは優しい人だと思う。
行動に出せなくていい。
考えるばかりで動けないことが辛くなってもいい。
優しい人だと言われなくても、自分は優しいと信じていい。
優しい人になりたいなら、そう思えるだけで十分自分は優しい人だと信じていい。
自分なんか優しくない。優しいことなんか考えられないと思う人も、自分は優しいと信じていい。
人は自分の優しさにしか興味がないから、あなたが優しいかどうかは自分で判断していい。
人はあなたが普段どんなに優しいことを考えているかなんて気にしていないから、あなたは、行動には出せないような優しいことをどれだけ考えてもいい。
考えること、思いつくことを行動にしないといけない義務はない。だって人はあなたの義務に気づかない。
あなたは優しい人間だと言われなくていい。
あなたは、自分は優しい人間だと思っていい。
人に見つけられなかった優しさを、存在しなかったものにしなくていい。
あなたは優しい人でいていい。
あなたは、おばあさんに席を譲れなかったことを後悔しなくていい。
席を譲れなくても、声をかけれなくても、スマホを見て気づかないふりをしても、自分は優しいと信じていい。