できないことを諦めることが正しいと思っていた

けど今は、できないことを“できないのだから”と受け入れることを悲しいことだと思うようになった。

自分には無理なのだから
自分には才能がないから

そう思うことで自分の機嫌をとることができると気がついてから、生きる上で必要なのは自分の不出来を諦めることだと思ってきた。
けど自分が不出来な人間だと認めることはともかく、できないことを仕方がないと思いそういう自分であることを慰めるのは果たして悲しいことなのではないか。

というよりむしろむかつく。うるせえ。
できないことができなくてなにが悪い? と思うことが積極的な消極的思考だと考えつくと気持ちが悪くなった。
それが気持ち悪い考え方である自覚がなかった。その考え方ができるようになってから随分楽になったから。

できないことをできるようになるために行動する体力が身についた、と言い切る自信はない。体力がついたからそう感じるようになったわけではなく、経験が増え、できないことが昔より多くなり、そうなると、できないことをできないのだからと流すことに腹が立つようになった。できないことをそのままにすることは自分にとって損だし、そもそもできないことが多いと、人に関わるときとてもしんどい機会が増える。

できないことや苦手なことを、できない、苦手だと認識した時、そうか、と無感情に受け入れ流すのではなく、それを改善したり、解決する方法を考えるのはできるようになっている。

そうか、と無感情に流したくない。悔しいと思い、泣きたい。
私が苦手なことができる人が羨ましいと感じた時、それを殺したくない。羨ましい、死んで仕舞えばいいのに、と思ったままでいたい。

悔しさや妬みは原動力になるが、別に原動力が欲しいからではなく、プラスの感情だけを人に抱くよう選んでいると、その人のことと自分のことがよくわからないから。

というより、人に殺意を持つことは心地がいい。
自分に殺意を抱くよりずっと心地が良く、心が湧き立つ。
人に殺意を持たれたくはないが。
自分の人に対する殺意が、その人に対する尊敬の気持ちや観察眼に影響しないことに対して自信がある。
むしろ自分に殺意を感じている時の方が目が曇り、頭が鈍くなるように思う。
目は内側ではなく、外に向けていたい。
思考よりも行動に重きを置きたい。

感情を殺して得る穏やかさより、激情を隠せるほど皮の厚い穏やかさが欲しい。

自分はできることよりできないことの方が多いから、と。
いやそのまんまで言いわけがなくない? ないよね。
なんの得にも徳にもならないし。

できないことがあることを悔しいと思いたい。
悔しさに泣きたい。
できるだけ多くの感情を生かせられるようになりたい。

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