見出し画像

感謝の形3

こんにちは〜

「総合開運霊学研究所」所長

「開運霊学」マスターのしゅんしょう先生です・

『感謝の心』って難しいです。『報恩感謝』恩を受けたことに感謝が絶えない、何とか御恩に報いたいと言う気持ち。

『報恩謝徳』とも言います。恩に感謝し報いること。『報恩』は受けた恩に報いることで報徳とも言います。『謝徳』は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩とも言います。

「こんな自分でもこれだけのお蔭を頂いた。ああ、有難い。この有難い気持ちにどうやって答えたらよいのだろう。」こんな感じでしょうか。

別に皆さんに卑屈になれというのではないのですが、「こんな私が」と思えることがとても大事なのです。これは口先だけで言っても何の意味もありません。

ただ、自分のいたならさに気がつかされる。「何でこんな至らぬ私なのにこれだけ沢山のお蔭を頂けたんだろう。ありがとうございますお不動様、ありがとうございますお大師様。」みたいな〜😊

要は心です。自分自身をどう評価するかです。この辺の心の表現は哲学的になりやすくて、ともすれば自分を卑下した表現を沢山知っていた人が徳の高い人間と勘違いすることがありますので、そうならないように気を付けましょう。

日当一日に二万円の人が十日間働いて二十万円です。その人が十日で三十万円頂いたら自分をそれだけ高く評価してくれたことに感謝の気持ちが出るでしょう。

逆に十日で二十万円の所を「ちょっとこの仕事では二十万円は払えない十五万円にしてくれ。」と値切られたら自分を低く評価された訳で腹も立つでしょう。

しかし、ここで問題にしているのは一日二万円の賃金を頂ける仕事を本当にしているか自分で自分を再評価してみることです。

すると「ああ、今まで自分では一所懸命仕事をしてきたつもりだけど一日の自分を観察してみたら?つまらんことばっかり考えてとても一所懸命とは言えないなあ、それでも一日に二万円も頂けなんてありがたいことだ。ああ、有難い有難い。」と言うようにです。

 こういう気持ちが芽生えてくると『気付き』が身についてくるので
 「今日も健康で有難い」

 「今日も仕事が出来て有難い」

 「家族が健康で有難い」

 「病気になったけど軽くて良かった有難い」

 「車で事故したけど怪我が無かった。有難い、有難い」

 そこに年季が入ってくると、

 「今日も朝目が覚めた有難い」

 「普通に息ができていることが有難い」

 そして、最後は、

 「生きていることが有難い」

 その次は、

 「この自分の命は自分ではどうすることもできない。これは、本当に神様、仏様から頂いた命だ、有難い」

 そして、究極は、

「この命は神様か仏様かわからないが頂いた命、とはいうもののいつ死ぬか神様、仏様しかわからない。と言うことは神様か仏様かはわからないけど私はそれに生かされているんだ。こんなつまらない私でも生かされている。ああ、勿体ない。ああ、有難い」

生きていればこそ、嫌なこともあれば楽しいこともあります。いろんな経験を積んで魂は磨かれます。

この命、神様、仏様から頂いた命とはいえご先祖様、特に両親がいなかったらこの世に生まれることができなかった。と言うことは自分にとっては両親が神様であり仏様であることには間違いありません。

両親を大切に思う心が『感謝の心』の究極かもしれません。

とは言え、中には自分を捨てた親もいれば死に別れた親もいるでしょう。世の中には生きているだけで社会に迷惑をかけているような親もいるのが現実です。

私はそんな悪い親にやさしい言葉をかけなさい。とか両親に尽くしなさいとかは言いません。

ただ、両親を大切に思う心が大切なのです。大切に思う心を持ち続けることで、いずれはその心が何らかの形となって表れてくのです。

ご先祖様をず~とさかのぼると神様に行きつきます。血のつながった両親こそ神様仏様の現れでありご先祖様です。

また自分が親になれば自分の子孫から見れば自分自身が神様であり仏様でありご先祖様です。

と言うことは両親を大切に思うように自分自身も大切にしなければなりません。

つまり自分自身を大事にすることは先祖供養につながるのです。 合掌

写真は、イタリアのバルバレスコ村のレストランからの風景です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?