音のない世界を伝えるということ
ワタシは聞こえないというハンディがある人間だ
聞こえない以外にもマジョリティの中に入れないくらい
マイノリティが詰まっている人間でもある
普通に対話をする分には難なくこなしてきたけど
コロナ流行でマスク人間が増え
口元が見えない世の中になって
とても生きにくい時間を過ごした時期がある
“すみません、聞こえないので書いてもらえませんか?“
そう言って書くものを出せば
ご丁寧に書かれたものは「こんなことを書かせるな」
マスクをとってくださいというのは相手に事情がある
それを考慮して書いて欲しいことを伝えた
何を言われているのかわからず
これを書くなら言ってることを書いて・・・と思うと同時に
日本ってすごい世の中だと感じた
母国に戻ってどっと疲れたのを覚えてる
感覚が麻痺するくらい
自分がおかしいのかという錯覚の日々だったのだ
一生懸命話してくれている相手に失礼だと思うから
聞こえないということを伝えるだけで
何アピールしているんだ?という人
特別扱いアピールしてるとか周りに我慢させるという人
その発言はどんな生き方をしたらその言葉が出るんだろう
言ってることがわからないのではなく
言ってることが聞き取れないのでわからない
前者と後者って全く別物で
言ってることがわからないのは理解力の問題
聞き取れずわからないのは社会の壁の問題
発達や知的は理解力の問題だけれど
絵にしたり図にしたり手段を変えることで
意思疎通はできる
それでも
ワタシの場合、母国語が英語なので
独自の日本語を使われると
はあ?となることもしばしば
アメリカやヨーロッパは福祉が豊かというが
フランスでは障害者という言葉を
障害のある環境にいる人だという
障害ってね
その障害を持つ人なのではなく
社会が会社が環境の成り立ちが作り出しているもの
隠すつもりもないし
一生懸命話してくれる人には
何度も話してもらうことは疲れさせるのも知ってる
聞こえないと伝えて気疲れさせることも知ってる
その上で、聞こえないんですという言葉を出した時
その周りが作り上げる言葉や行動で障害を作り出す
これが日本社会のあり方だと感じた
わたしはこれを心の障害者と呼んでいる
オープンチャットでも
障害がある、年齢等関係ないですっていうけれど
ライブトークというツールでスピーカーに上がる要請がでた時
あとで言われた言葉は忘れない
傷ついたというよりもすごいなーと感心したがその時の気持ち
そしてその行動から聞こえない=発達とか知的という勝手な思い込みが出る
冒頭で述べた理解力がない人の方
(ここでは、なんの障害も持たないのに理解がない人のことを指します)
よっぽどじゃないのかと思ったけれど
そっとトイレに流した
奪い合い、貶し合いは、憎しみを生み出し
分け合い、譲り合いは、喜びを生みだす
ライブトークが開催されると
真っ先にスピーカーに上がる現象や
自分の正義が正しいとアピールする現象も似たようなものがある
ちょっと相手の気持ちを聞いて周りを見渡した時
どこで歯車が狂っていたのか気づいた時に調合される
それが優しさというエネルギーに変わる
身体のどこかに欠損していることだけが障害ではない
心のあり方でバリアフリーは創造される
ワタシはALSという難病を持つ人の背中から教わった
やりたいことは諦めない強さと
信頼できる人に伝えることから逃げないことだ
言語化が上手くなくても伝えることを諦めなければ
そこにいる人たちのエネルギーは才能と本当の優しさで溢れる
本物ってそういうことだ
大きな愛のエネルギーを感じた時間
また一つ聞こえないという自分をありのままでいい
そう思わせてくれたBIGな時間
もし、同じように悩んでいる人がいたら
その人に伝えたいのは
何も言わなくていい
そっとその場から離れるだけで
周りには才能ある優しくてかっこいい人が集まるよ
捨てる神あれば拾う神がいる