書物巡礼番外編 2021.9.3
「幸せな孤独」
スザンネ・ピエール
19年経ってようやく「あ、そういうことだったのか」と思った。
本当の意味が掴みとれないまま頭の片隅に存在し、折に触れて心の書棚から引っ張り出し眺めていた自分の中の疑問。
その疑問に先日ようやくケリがついたのだ。
私がこの映画に出会ったのは高校生に成り立ての初々しい時期で、今思うとかなり背伸びをしたチョイスなのだが、たまたま目にした予告動画に惹かれ、クラスの友人を誘い渋谷の映画館へ足を運んだ。ミニシアターデビューであった。
「幸せな孤独」の”幸せ”という響きから”切なくも暖かいヒューマンストーリー”を勝手にイメージしていた私は本編を観てカルチャーショックを受けることになる。
主人公の女性セシリはヨアヒムにプロポーズされ結婚間近。しかし不慮の事故によりヨアヒムは全身不随になりセシリに心を閉ざしてしまう。そんな彼の冷たい対応に打ちひしがれ、セシリはヨアヒムの担当医師であり事故の加害者の夫であるニルスに心のケアをしてもらううち、ニルスとセシリは互いに惹かれ始めていくのだが……。
内容は暖かさとは遠い寒々としたもので関係性も相当複雑。しかも撮影方法が「ドグマ#28」というもので今まで見てきた映画とはまるで違う質感のものだった。
何より当時私が混乱したのはその結末だった。全員が”ひとり”になる選択をしたのだ。
全然分からなかった。みんなあんなに寂しそうな顔をしてるのに、一緒にいれば楽になれるのに、何で全員が”別れ”てしまったのだろうと。
幸せな孤独なんてホントにあるのだろうか。少なくともこの人たちは幸せそうには見えないのに。強がりなんじゃないのか、綺麗事なんじゃないか。
この疑問に答えが見出せず、同時にとても心惹かれ、DVDを購入し何度か繰り返し拝見した。
でもやっぱり結末の意味が分からなかった。いや、正確には全員のとった結末の意味は分かり始めたけれど、納得はいかなかった。自分だったらそんな潔い選択出来る気がしない。辛いじゃないか。好きなのに何でなのさ。
そう思っていた。
ここ数年この映画を観ることは無かった。誰かとこの作品について語り合うことも無かった。
それなのにふと先日この作品のことを思い出し、思考にふけっていたのだ。
あの結末は、みんなが”ひとり”になったのは、然るべき選択だったよな、と初めて素直に思えた。
自分が悲しくなったり傷ついたりするのは面倒で出来るだけ回避したい。20代の時はその思想が特に強く「その場しのぎ」でも、目の前にある平穏や安らぎを選んでいた。だけど最近分かってきた。それって、結局辛いことを後回しにしてるだけで、むしろ後回しにした分虚しさは肥大していくのだと。
だから、今歯をくいしばることになったとしても”後ずさり”してはいけないのだ。状況で判断するのではなく、心が前進するための選択をしないと”幸せ”にはなれないのだと。誰かがそばにいてくれるのは安らかだけど、その理由が”淋しさを紛らわすため””辛い気持ちを遠ざけるため”では結局誰も”幸せ”になれない。ひとりぼっちになるとしても孤独だとしても、それが自分の意思で選んだ道ならばそれがその人の最良の幸せなのだと。
これは恋愛に限ったことではない。仕事も家族もみんなそうなのだと思う。目の前の安らぎではなく、少し遠くで光る”希望”のために自分は今どんな選択をすべきなのか。
この作品に出逢って随分年月が経ってしまったけれど、本心で「彼らの選択は正しかったんだな」と思えて、大人になった喜びにまた1つ触れた気がした。