自分のヌーディストビーチで穏やかに日を浴びる世界の私から、今の私に届けたい言葉
久々にネタをもらった。noteに書いて欲しいことを人に伝えるのも伝えてもらうのもどっちもいいですよねー、なんて言っていたら届けてもらった。
久々のネタに書く前からわくわくが止まらない。
そもそもヌーディストビーチとは素っ裸で生きたい私の目指す土地
素っ裸で生きたい。それが最近の私の掲げている、自分の目指す生き方。いろいろなしがらみや自分の理想に縛られてありのままで生きられなかった私が、全部脱ぎ捨てるぞ!と掲げたものだ。
素っ裸で生きる。ありのままで生きたい。多くの人が掲げているテーマだと思う。このテーマを掲げてから、ありがたいことにnoteを読んで共感したと言ってくださるクライアントさんに出会うことが度々ある。
とっても嬉しいし、多くの人が悩んでいることなのだなと実感するタイミングだ。そして同時に思う。これほどまで多くの人がありのままで生きたいと願う社会って不思議だなと。
そして同時に思うのが、だからこそ社会が成り立っているのだろうということ。だってみんながありのままで生きていたら、おそらく社会は崩壊している。みんなが妥協をしながら生きているからこそ、社会はなりたっているのだ、とも思う。
だから私は、ヌーディストビーチが必要だと思う。ここでなら、この場所でなら自分がありのままでいてよいのだと許容される場所。そんなその人にとっての居場所がヌーディストビーチだと思う。
誰もがいける場所ではなくて、お互いにそこでは裸になろうと合意がされる場所でお互い裸でいようと言い合える関係性の人といる居場所がヌーディストビーチだ。
自分のヌーディストビーチで穏やかに日を浴びている場所で私は何をしているのか
タイトルに戻ろう。自分のヌーディストビーチ、それは私が、自分も相手も裸でいたいと思う人と一緒にいる、裸でいていい場所。だからみんなのではなく、自分のヌーディストビーチ。
そこには私が心を開きたい人しかいない、安心安全なビーチ。
そんな理想の地で穏やかに日を浴びている私って何をしているんだろう、とふと思った。同時に思ったのは、今の私は穏やかに日を浴びるとは正反対であるということ。
おそらく大海原を嵐の中、頼りない小船で波に飲まれまいと必死に必死に船を進めている。帆はなく、手でひとかきひとかき進んでいる。
そんな今の私からは想定できない、穏やかな日を浴びている私。きっとやりたいことを叶えている。ストレスはなく、のんびりとした時間が過ごせている。羽が伸ばせている。
刺激がなくてつまらないんじゃないか、とも思ってしまう。でもきっとそこでの私はただ日を浴びているだけではなくて、好きなことを好きな人とできているから、きっと退屈ではない。
自分が好きだ、と思う、人の物語を聞いて一緒に体験し、時に本を読み、時に運動し、運動して疲れた体は癒し…そんないい循環にあふれている場所だ。
ふとこの場所で自分はきっとひとつひとつのことに一つずつ真剣に向き合っているのだろう、と感じた。今はいろいろなことを並行にひたすらに進めようとしている。
船をこぎながら、たまった水を掃き出し、行く末の大地を探し、天気を読む。そんな並行作業ばかりしている自分とはかけ離れた、一つ一つのことに集中している自分。
あぁ、とふと思う。私は最近自分はマグロで動き続けていないと嫌なのだ!と必死に物事に取り組み、向き合っている。それ自体は好きだ。でもふと思い返してみると、本当に好きなのは一つの物事に集中しているときではなかったか?
ヌーディストビーチにいる自分はやりたいことに没頭できている自分
きっとヌーディストビーチにいる私は、一つ一つの物事に大事に集中して取り組めている自分な気がする。いろいろなことを同時に意識すると自分はおそらく楽しみ切れない。
キャパシティは広い方なのだと思う。並行処理は得意だし、切り替えて次々とことを進めていくことも得意なのだ。だからできちゃう。できちゃうけどそれがしたいわけではない。
そしてできちゃうからやっちゃっているけど、たぶんどこかで負荷がたまっていっているのだ。心のどこかで一つのことをじっくりやりたいよーって叫んでいる自分がいた。
並行処理をしているとき、どこかで私は一番好きなことをやりたいことを最後に残している。お楽しみは最後に残しておく派だからなのか、お楽しみをとっておかないとやらなきゃいけないことをやらないからなのか。
そうやって並行処理を進めていった結果、いつの間にかやりたくないことばっかり、やりたくない並行処理をし続けている自分がいる。
きっと今の自分はヌーディストビーチにいる理想の自分からは遠く離れている。だからこそ疲れていて、死んでいて、感情がぶれまくっている。感情がぶれまくっているのはきっとヌーディストビーチが見えてしまっているから。
理想が見えていて、現実がギャップがあって、だからこそ葛藤しているのだと思う。
今の自分にかけたい言葉は取捨選択をすることとそれでもなお進むこと
今の自分にかけたい言葉は?と改めて問うと、当たり前なのは、【取捨選択をして、本当にやりたいことに没頭して生きていこうよ】ということ。それが自分の理想だし、そうなっていればきっと自分のストレスも少ない。
その状態になれることが幸せだ。
でもやっぱりどこかでまだそこには行けてない自分というのも認識している。海原にいる自分が漕ぐのをやめて、風を感じてまどろんでいたら多分沈む。
もうちょっと前に進めば、岸が見えるかもしれないってどこかで期待しているのだ。とにかく年内はもうちょっと走っていきたいと思っている自分がいるのだ。
色々な思いを2022年に向けて持っている。年末までいろいろなことを頑張りたいと思って旗を掲げている。楽しくて充実しているとも思う。
でもどこかできっとしんどさもあって。年内と決めているから走れている部分もきっとある。
今の自分にかけたい言葉は、ちゃんとこのがむしゃらは年内で止めること、そして年内に目的地にたどり着きたいと思っていることを忘れないこと、そして死に行く前に一度漕ぐ手を止めたほうが前に進む時だってあるのだよということ。
がむしゃらに前に進みたい、目的地も見えていて、頑張るエネルギーもある、そんなある意味恵まれた状態。その状態を健全に維持するためにはただ目的地だけを見続けるんじゃなくて、ちゃんと今の自分も見ないといけない。
だって今の自分は理想からは遠いから。今の自分でい続けることが理想ではないのだから。
ちゃんと目を向けてね、そんな言葉をかけたい。