霊憑き男子は推し活女子に恋をする 第6話【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】
顕微鏡で血眼になって探しても、一ミクロンも短所など見当たらない完璧な私が、ここ最近恋愛のことで心を悩ませているなど、一体誰に想像できようか?
寝ている間も食事の時もトイレの中でさえ、私の考えを占めることはたった一つだ。
どうすれば、早坂さんを私の物にできるか。
それだけである。
純真可憐で花のように美しい彼女、私の意中の人、早坂奈々さんを、一般大衆に向かって声を大にして「恋人です」といえる関係になりたいだけなのだ。
彼女が毎日うちのレストランに来ていた頃――私の中でまだ「ロイヤルさん」だった頃は、別になんとも思っていなかったのに。
ここ最近、どうにも彼女に対して本気になっている自分がいる。
どうして彼女がこんなにも私の心を焦がし、乱すのか。それは私にさえも分からない。
しかし分かっている事がひとつある。
この遠野彰文、やられっぱなしは許せないということだ。
私がこんなにも焦がれときめいているのだから、彼女にやっぱり私のことを思い恋焦がれて欲しいのだ。そのためなら何でもしよう。
たとえ恋人がいようとも、フィアンセがいようとも、必ずしも私の方へと気持ちを傾かせて見せる。
彼女がとてつもなく料理が下手でも、私はその手料理を完食してみせよう。
彼女が特殊な性癖を持っていても、私は完璧に要望に答えて見せよう。
そうとまで思うのだ。
ここまで本気になるのは、一体いつ以来であろうか。学生時代、運動会も文化祭も、熱くなる友人たちを尻目にボケーっとしていた私が。
今までここまで恋に対して能動的になったことなどなかったというのに。
私の心を突き動かす原動力は、どうやら早坂さん以外にないらしいのだ。
天然かつ純真な彼女には、
①強引に迫る
②少しずつお近づきになる
③率直に言う
④全裸で告白
の、どれがいいだろうか。
①は嫌われる可能性がある。
②だと気づかれないかもしれない。
③は味気ないし、
④は個人的に一押しなのだが通報されてブタ箱行きもありえる。
彼女は私をどう思っているのであろう?
隣ですやすやと寝息を立てている早坂さんの顔を見つめながら考える。
私がこんなにも我慢しているというのに、何も知らず可愛らしい寝顔を見せ付けてくる、罪深い寝顔。
こんな夢のようなシチュエーションになったわけは、半日前に遡る。
* * *
夜通し一人オセロをしていた私は、倦怠感を感じながら起床した。
一人オセロと言うのは、右手で私が黒のコマを置き、陣八が左手で白のコマを置いていくのだ。
将棋や囲碁が得意だと陣八が言ったので、ではオセロでもしようと提案して、ルールを全て説明したのだ。
一人でぶつぶつ言いながらオセロをやっているなんて、完璧に根暗の引きこもりの危ない奴にしか見えないが、それが結構楽しい。
何度やっても私が勝つものだから、負けず嫌いな陣八はもう一戦やろうとせがむのだ。
しかし彼は気づいていない。
彼が小さい声で呟いている声は私に丸聞こえだと言うことに。
あっちに置いたらこっちが取られてしまうから云々、と喋っているのが筒抜けなので、
『あ!次そこに置こうと思っていたのに』と言われても、ほくそ笑むしかないのである。
事情を知っている第三者がいれば、随分その状況を楽しんでいるじゃないかと思うだろうが、私は基本的に来る者拒まず去る者追わずスタイル。
思わぬアクシデントに腹を立てても事実は変えられないので、ならばプリプリイライラ起こって毎日を過ごすよりは、その状況さえも楽しんでしまったほうが得だと考える。
まあ別に、陣八が頭の中にいたからといって、私の優雅かつ紳士的な日常にはさほど大差はない。
それに、
『拙者の時代は、このマグロのトロの部分などは捨ててしまったのだぞ』
とか、
『知っているか、実は信長公は男色だったのだ。小姓はべらしてウハウハだったとな』
という江戸時代トリビアを教えてくれるので、そこそこ楽しかったりする。
そういうわけで私は少々寝不足だった。
起きると、どうも板の間が騒がしい。
普段は座禅の時間だろうに何が起こったのか、と身支度を終えて出かけがてらに覗いてみると、坊主たちが大荷物のまとめているところだった。
「どうした、夜逃げか」
「違うっつの。今日から一泊二日の修行に行って来るんだよ」
袈裟姿が最も似合わないユキヤが茶髪のなびかせながら言う。
手にはスマホを持っていて、
「ごめん、今日は会えないんだ。
馬鹿、そんなんじゃないって、俺にはお前だけだよ」
という耳の痛いトークをしていたので、背中を蹴ってやった。
「彰文、わしたちは出かけるから、夜はしっかり戸締りをするのだぞ。
そして、寝る時にはお経を流すこと」
「ええ、承知いたしました」
爺さんの言葉を適当に聞き流す。
静かでいいことだ、と私は意気揚々と仕事場へと向かう。
小声でヨシたちが「温泉だぜ」、「船盛りだぜ」、「混浴かもな」とわざとらしく耳打ちしてくる。
修行しにいくなんて絶対に嘘だ。
* * *
「もうクリスマスまであと一週間だねぇ。
一年って早いね」
フロアチーフがしみじみと言った。
線の細い彼は見た目年齢不詳だが、三十は超えていると思う。
開店前に窓を拭きながら、クリスマス一色の町並みを眺める。
「クリスマスが近づくと、なんだかワクワクしてこない?」
「そうですね、どちらかというと私はムラムラします」
「それで君の場合、それを発散できなくて悶々とするんでしょ」
「言いますね。ですがその通りです」
人のよさそうな顔をして意外と毒舌なチーフと窓を磨きながらため息をつく。
「早坂さんとは、どうなの?」
唐突な発言に、私は思いっきりガラスに頭をぶつけた。
脳の中で『痛ッ』という陣八の声が聞こえる。
「………どう、と言われましても」
「この前一緒にコンサート行ったんでしょ?
彼女が喜んでたよ。
それに、おとなしい彼女が君の前ではいつも楽しそうに話してるし」
激突した額を撫でながら、心の底の見えないチーフに苦笑いする。
楽しそうに話してるといっても、彼女の話題はいつでもシン様のことだが。
「…まだまだ前途多難ですから」
「そう、僕にできることがあったら何でも言ってね。
でも、彼女も結構君のこと気に入ってると思うけどな」
意味ありげなチーフの言葉に雑巾を握り締め、横顔を凝視する。
微笑を浮かべたまま窓を拭き続ける彼に、
「どういうことですか」
と冷静を装って尋ねると、
「僕の考えではね…」
と言い掛け、
「おい遠野、こっちの飾りつけ手伝え」
というオーナーからの言葉に遮られた。
タイミング悪すぎ、とぶっきらぼうに返事してオーナーの方へと向かう。
チーフは意味深な笑顔を浮かべ、「まあ頑張って」と言ってきた。
レジの横に大きなクリスマスツリーを飾りつけているオーナーは、咥えタバコにピストルか日本刀が似合いそうな風貌をしているので、ツリーに飾るサンタやらトナカイやらの飾りがまったくもって似合わない。
豪快そうな見た目に似合わず、「これはこっちのほうが見栄えがいいな…」と細かい位置にまで気を使っているようだ。
どうせ丁寧に飾り付けても、客はそんな所まで見ていないのに。
そうとも、カップルはクリスマスと言う魔法の言葉に酔っており、華やかな街並に酔っており、
「クリスマスにレストランで恋人と過ごす自分」に酔っているのだ。
そんな奴らのために、私が何故奉仕しなくてはならない?
普段はホテルの利用客などが大半を占めるこのレストランも、クリスマス前になると予約でいっぱいだ。
私たちは常にその対応に負われている。
「そうだ遠野。
クリスマスはイブも二十五日もシフトに入ってもらうからな」
オーナーのぶっきらぼうな一言に思いっきりツリーの前でずっこけてしまった。
『痛い!』と再び頭の中で声。
「何故ですか。他にも店員がいるではないですか」
「チーフは新婚だろう。クリスマスまで働かせるのは酷だ。
他の奴らも恋人と予定があると言うことだから」
オーナーの容赦のない言葉に絶望した。
絶望して失望して切望して、あまりのことに倒れそうになる。
なんという事だろう。他の従業員全員がクリスマスだからという理由でシフトを入れられないのに、私は恋人がいないと言う理由で仕事しなければならないのか?
ラブラブなカップルを見せ付けられながら給仕をするのか。「君の瞳に乾杯」なんてほざく客がいたら「お待たせしましたーメリークリスマス!」と言ってディナーを顔に投げつけてしまうかもしれない。
私の無言の抵抗を感じ取ったのか、オーナーは少しフォローを入れるかのように、
「まあ、俺も一人身だから。
当日は稼ぎ時だし、給料も弾むぜ」
と笑った。
このオーナーはいつもは怖いし任侠顔だが、意外と優しいところがある。
気遣ったその言葉に、から元気で、
「わぉ、ではクリスマスはオーナーと過ごせるんですね、マーベラス!」
と叫ぶと、優しかった顔が一気に豹変して可哀想なものを見るような目になった。
「……まあよろしく頼むぜ」
それだけを告げて鳴り出した店の電話を取るため足早に去っていった。つれない人だ。
私は不貞腐れながらオーナメントを飾り続ける。
『面白い風習ではないか。
祭のようなものなのだろう?』
「ああ。二千年ほど前に救い主キリストが生まれたお祝いの日なのに、なぜか今では、恋人同士で愛を語り合ったり、七面鳥をむさぼったりするのが恒例と化している。
全身赤色の服を着た白いヒゲの老人が不法侵入を繰り返し、子供への贈り物を靴下に押し込んでいくという迷信もある日だ」
『恐ろしいな』
何も知らない陣八に入れ知恵をしていた時、ふと先ほどのオーナーの言葉を引っかかった。
私以外の従業員は恋人と過ごすために休み?
とうことは、早坂さんも?
シフトに入っていないと言うことは、彼女には予定があるということか?
不意によぎった想像に思いを馳せ、慌ててオーナーに尋ねようとするも、いつの間にか開店時間になっていたらしく客が入ってきてしまった。
聞くタイミングを逃してしまった私は、いやな妄想がむくむくと膨らむ中、クリスマス前の忙しい時期に身を粉にして働く羽目になるのだ。
* * *
帰り道、三百段の階段を上りながら、疑惑は頭の中でますます増していった。
考えれば考えるほどドツボにはまっていく。
無駄に頭の回転が速く想像力があるだけに、悩めば悩むほど深みにはまっていってしまう。
すでに想像上では、早坂さんは他の男とイチャイチャしてしまっている。
『拙者が考えるに、彼女は家族と過ごすのではないか?』
陣八の言うことももっともである。
近年まれに見るほどの純情な彼女である。
クリスマスはもっぱら家族と過ごすと決めていたとて、ありえる話だ。
そうさ。きっと家族と過ごすんだ。
そう決め付けると心なしか気が楽になった。
が、結局私と一緒に過ごせないことに変わりはないことに気が付き、がっくりと肩を落とした。
階段を上りきり、寺である実家の戸口まで着くと引き戸に手をかけた。
……開かない。
うんともすんとも言わない。
私の知らない間に押し戸に替えてしまったのかもしれないと、押したり引いたりずらしたりしてみたけれど、ちっとも動かない。
声をかけても、中からは静寂が返事をするだけど。
ふと今朝のやり取りがフラッシュバックした。
今日から一泊二日の修行という名の温泉旅行に行くと言っていたことを。
明日の夕方まで、じいさんも見習い坊さん達も全員出払っている。
毎朝早く家を出て、夜遅く帰り、常に家に誰かがいるという生活が日常の私は、非常識ながら鍵を持ち歩くという習慣がなかったのだ。
一気に血の気が引いた。
このまま締め出されて外で一夜を明かせば、熱く燃えるパッションが売りの私でも、さすがに冷凍人間まっしぐらだ。
漫画喫茶か二十四時間サウナで夜を明かそうかとも思ったが、今はクリスマス前。
言い換えれば給料日前。
坊さんになることを拒否した代わりに生活費は自分ですべてまかなっている身としては、金は使えない。
だからといって泊めてくれるような気の利いた友人もいない。
……しょうがない、とりあえず仕事場へ戻ろう。
私はとぼとぼと、もと来た道を戻り始めた。
* * *
丁度店を閉めようとしていたオーナーに事情を話すと、なら控え室で寝たらどうだ。あそこならソファも暖房もあるし、と快く店の鍵を渡してくれた。
これぞ天の助け、と思いながら真っ暗な店の中へ入る。
閑散とした室内は少し不気味だ。私は手探りで控え室の電気をつける。
控え室といっても私物で散らかった狭い部屋である。
疲れた体をソファに投げ出しても、私の長い足ははみ出してしまった。
暖房の音を聞きながら、呟く。
「陣八に急に憑かれた時も、ここで寝ていたな」
『ああ、あまりにも彼女がさくらに似ていたんで、取り乱してしまったのだな』
熱を出して倒れて、私は陣八に怒ったのだった。
そしたら陣八は飄々と、『彼女と結婚しろ、彰文』と言ったのであった。
「結婚か…」
今の自分からは現実離れしていて、実感のわかないような夢物語だ。
幼い時に親を亡くし、住職の祖父の元で育った私は、幸せな家庭、仲睦まじい夫婦をいうのを間近で見たことがないからいまいち実感がわかない。
結婚して子供が生まれて孫が生まれて、そんな当たり前なことを考えたこともない。
腹が鳴った。
シリアスなことを考えていても、人間腹は減るのだ。
しょうがないので立ち上がり、財布を持って戸締りをして外へと出た。
数分歩いたところにあるコンビニに入ると、暖かい暖房の空気と店員の笑顔に迎えられた。
コンビニは入る度に、陣八がうるさく、あれはなんだこれはなんだとうるさいから、なるべく行かないようにしていたのだが、場合が場合だ。
レジの横のおでんをじっと見つめ、はんぺんと卵とちくわでいくらになるだろうか、と暗算する。
「遠野さん?」
不意に声を掛けられた。
「いかにも私が遠野彰文ですが…あ、早坂さん」
条件反射で名乗り、振り返ると、目の前に白いコートを着た早坂さんが立っていた。
「奇遇ですね。遠野さんはシフトでしたっけ?お疲れ様です」
寒いからか、鼻の頭が赤い彼女が、ぺこりと頭を下げてきた。
「ええ、早坂さんは買い物ですか?」
「はい、私は家が近いので。遠野さんは?」
「実は家が爆破してしまいまして…」
「ええ!?」
それって大丈夫なんですか?と心配そうに尋ねてくる早坂さんを見て、その素直なリアクションが新鮮だった。
私の周りの人は流すか笑うかなので、彼女の反応にぐっとくる。
「嘘です。鍵をなくしてしまって、家に帰れないので今夜は店に泊まろうと思って」
「そ、それでも大変じゃないですか」
実家が寺だと知られたくない私は、微妙に事実を変えながら答えた。
ええそうなんです、大変なんですと言いながら、なんでよりによって今みたいなみっともない時に会うのだろうか、と内心舌打ちしたくなる。
おでんの値段表示を見ながら、再び頭を悩ませた。私の今の手持ちでは、どう頑張ってもこの空腹を充たすことができない。
だからといって早坂さんにお金を貸してもらうのも情けないし。
私はおでんの組み合わせを何通りも考えながら立ち尽くす。
早坂さんは、夢のような台詞を口にした。
「あの、よろしかったらうちに来ませんか?」
我が耳を疑った。
あまりに驚いたものだから、ぽかんと口を開けたまま、手に持っていた財布を落としてしまった。
只今の全財産、三百八十二円が床に散らばる。
「す、すみません」
「いえ、あ、そこにも落ちてますよ」
しゃがみこんで小銭を拾いながら、手伝ってくれている早坂さんの顔を見た。
もしやこれって。
誘われている?
全ての小銭を拾い終わって立ち上がる。私はさっきの言葉を忘れる前にもう一度問う。
「泊まるって、早坂さんの家にですか?」
「ええ、だって店の控え室なんて、狭いし寒いし、疲れが取れないんじゃないですか」
と、いとも簡単に言うのだ。
なんだかこのまま、「俺が欲しいってか、大胆な子猫ちゃんだぜ」といって肩を抱いてしまいたい勢いだったが、そんなことをしたらレジの方たちが大層驚くだろうと自分を戒めた。
「この前のコンサートのお礼です」
にこにこと笑う彼女の表情からは打算などは微塵もうかがえない。
彼女は純粋に、私の身を案じて提案しているようなのだ。
愛しの相手から家に来てと誘われて、泊まって良いと言われ、断る奴がいるだろうか?
そんな奴がいたら是非ともインタビューしてみたいぐらいだ。
とりあえず、私はそんな希少な男ではなかった。
私は悩むことなく即答した。
「早坂さんさえ、よろしければ」
今夜は長くなりそうだった。
期待と不安を胸に彼女の家へと向かう間、家族の方に迷惑ではないですかと尋ねたら、一人暮らしなのでと言われて、心の中でガッツポーズをとった。
薄暗い道中、街灯が照らしている。人通りが少なく、一人で女性が歩くには少々危険そうだ。
私が危なくないですかと聞くと、普段は自転車で通っているので大丈夫ですよ、と笑われた。
「しかし災難でしたね。今夜だけで平気ですか?」
「はい、大丈夫です」
白い息をつきながら答えるが、言い終わった後に少し後悔。
いえ、大丈夫じゃないんですと言ったらもう一泊できたのであろうか?
いやいやいや、欲は捨てよう。今日こうして彼女の部屋に行けることを良しとするのだ。
十分ほど歩いて、彼女が自分の家だと指差したのはごく普通のアパートだ。
十世帯ぐらいで二階建ての、下宿先と言う感じの質素のところだった。
二階への階段を上って、彼女は鍵を取り出して玄関を開けた。
「どうぞ、遠野さん」
「お邪魔いたします」
玄関を上がるとなんだか芳香剤のいい香りがした。
靴を脱いで、そちらが居間です、今お茶を出しますね、と言う声に従って歩いていく。
浮き足立つ気持ちを抑えて居間へと足を踏みいれた時、
仰天した。
部屋中に、神ノ木シンのポスターが貼られていた。
顎が外れるのではないかと言うほどに呆然と口を開けてその光景を眺める。
大小、いくつものポスターのすべてがシン様のもので、それが部屋中に張られているのだ。
巷では、四方の壁にスターのポスターを貼ると運気が上がるという風水が流行っているのだろうか?
「散らかってますが、どうぞくつろいでください」
いや、散らかっているのは構わないさ。問題はポスターの方だ。
これではくつろげるわけがない。
さまざまな服を着てポーズを取ったシン様が、まるで私に話しかけてくるようだ。
「やあ彰文」、「俺のこと好きなんだろ?」、「来いよ、彰文」と、随分挑発的なポーズのシン様がさっきからずっと私に話しかけてくる。
駄目だ!この部屋にいるのは危険だ!
本能が告げている。
陣八はどうやら絶句しているようだ。
私も同じだ。言葉が出ない。
とりあえず一刻も早くこの禍々しい部屋から退散することが先決だと思って、荷物をまとめた。ここにいたら洗脳されてしまう。
明日の朝には「シン様最高」が挨拶言葉のシン様狂になりかねない。
店まで戻ろうと決意した私に、キッチンにいた早坂さんがいつもの調子で聞いてきた。
「夕飯まだですよね。
私の手料理でよければ、一緒に食べませんか?」
………なんと。
抜き足差し足をして玄関まで向かおうと思っていた私の耳に届いた甘美な言葉に、思わず立ち止まる。
早坂さんの手料理。
早坂さんの手作り、ハンドメイド、マニファクチュア。
ハートにかなりのダメージが来た。
「ちなみにメニューは何ですか?」
「ミートソーススパゲッティですが、嫌いですか?」
「まさか、大好物です」
なんてことだ。私はパスタが大好きなのだ。基本的に麺類が好きなのだが、もう、パスタに恋をしてると言っても過言ではないぐらいに。
早坂さんの作ったパスタが食べられるのに比べれば、部屋に張られた紙切れなど、取るに足らないことではないか。
「いただきます」
「はい、ではちょっと待っててくださいねー」
私はテーブルの前に正座をして待つことにした。
キッチンではエプロン姿の早坂さんが料理している。
なんて素晴らしい光景。これではまるで新婚夫婦ではないかと、ひそかに胸を躍らせる。
いい香りが漂ってきて、空腹の私を誘惑する。
『さくらも手料理が上手であった。
思い出すな…』
しみじみと陣八が呟く。
そう、男というのは古今東西、女性の手料理に弱い生き物なのだ。
数分して、彼女がトレイで運んできた上には、上手に盛られた二人分のミートソーススパゲッティとサラダとスープが並べられていた。
色合いもさることながら、香りも実に素晴らしい。
「ではいただきます」
「はい、自信作なんで、どうぞ」
両手を合わせてフォークを手に取り、口に入れる。
流れ的に、とてつもなくまずいとか、塩と砂糖を間違えているとか、そういったサプライズがあるかと思いきや、普通においしかった。
いや、普通どころか猛烈に美味であった。
絶妙なトマトソースの酸味が、アルデンテに仕上がっている麺に絡んでいる。
「どうですか…?」
早坂さんは心配そうに私の顔色を伺ってくる。
早坂さん、合格です。完璧です。
マグカップにシン様の写真がプリントされているのも気にならないぐらい最高です。
「美味しいです、すごく」
素直にそう告げると、彼女はほっと胸をなでおろした。
「良かった!ちょっと緊張しちゃいました」
と笑う早坂さん特製のスパゲッティを巻きつけながら、できることなら今すぐあなたを食べたい、と心から思うのだ。
「私、家政科なんです。
将来は料理の先生になりたくて」
サラダを口に運びながら、彼女は優しく語った。
「昔から料理が得意だったんです。得意な物ってそれぐらいしかなかったんですけど。
食事って、皆に必要な物だし、誰かと一緒に食べることによって凄く美味しく感じたりしますよね。
それに大切な人に食べて貰って、美味しいって言ってもらえたら、作った人は凄く嬉しいから」
そう言って微笑む彼女は、この世の誰よりも素敵だと思った。
こんな美味しい料理を早坂さんの横で食べられるなんて、私はなんて幸せ者なのだろう。
よく考えれば、彼女とこうやって話をするのは初めてかもしれない。
普段は、仕事のことだったりシン様のことだったりで、お互いの夢の話などする機会はなかったから。
もっと知りたい。
彼女の感じること、好きな物、全てを知り尽くしたい。
欲望は募るばかりであった。
「でも失敗もしちゃうんですよね。
この前なんて実習の時に、膨らし粉を間違えて入れちゃって、レンジにかけたら爆発しちゃったんです」
「本当に?」
思わず噴き出しそうになった。
しっかり者の早坂さんも、そんなドジをすることがあるのだろうか。新発見である。
スプーンでスープをかき混ぜながら、
「羨ましいですよ。私はあまり、夢を持ったことがないので」
「そうなんですか?だって、ウェイターとして働いてらっしゃるじゃないですか」
「私は、やりたくないことは山ほどあったけれど、やりたいことは何もなかったのです。
自慢じゃないですが、私は昔から何かに対して努力をしたことがありません。勉強もスポーツも、苦労せずにできてしまいましたから。
何でもできてしまうと、逆に何もやりたくなくなるんです。とりあえず、見た目が格好いいものなら何でも良かった。
だからウェイター。別に、執事でもバーテンダーでもカジノのディーラーでも構わなかった」
私の話に、彼女は食べる手を止めてじっと聞き入っている。
「浅はかでしょう? だから貴女のように、夢を一生懸命叶えようと努力している人を見るととても羨ましい。そして眩しく感じます。
どうか失敗しようとも恥をかこうとも、自分の夢を諦めないでください」
私は素直にそう告げた。お世辞ではない。感じたままのことを伝えた。
事実、彼女は絶対に自分の夢を叶えるだろうという確信もしていた。
「ありがとうございます」
少し照れくさそうに、早坂さんははにかむ。
その細くなった目が愛らしくて、見とれてしまいそうになる。
「いえ、良かったらまた食べさせてください。そうですね、今度はオムライスとか」
「もちろんです。特訓しておきますね。遠野さんも…自分の夢を見つけてください」
「ええ。ああいや……夢なら、最近できましたね」
「え、そうなんですか?なんですか?」
首をかしげる早坂さんを見て思う。
それは、貴女を手に入れることだ。
「叶うまで、秘密にしておきます」
そんな、教えてくださいよ、ずるいですよと催促する彼女に首を振って笑う。
珍しく、今日は私の笑顔大放出と言った感じだ。頬が緩みっぱなし。
だが、それも悪くはない。
「しかし…カッコいいと思っていたウェイターも、実はかなりしんどいですよね。極道顔のオーナーにこき使わされて」
「極道って、酷いですよ」
くすくすと屈託なく笑う彼女を、抱きしめたいと思う私に罪はないだろう。
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