子育ては、選択する力をあたえてくれた
前回の続き。
以前の生活で得ていたbest。
「自由に自分の好きなときに好きなことができる。」
「めいっぱい働いて遊んで、目一杯休む。」
そこから一歩踏み出して、今のbestを見つけたい。
諦めないでも、犠牲にしないでも、周囲を羨ましがらないでも、私が「ママ」でいるために。
短距離走から長距離走へ。
全速力&全脱力から、ペースコントロール7割徐行へ。
長々とした前置きを終えて、ようやく本題が書けるのだった。
子育てが始まる前を振り返る
価値観てすごいな、とモト哲学女子はしみじみする。
この色は赤です、と名前を付けたときからその色は赤にしか見えなくなる。
テストで高い点を取るのはいいことで、悪い点を取るのはよくないこと。そう教えられた時から、100点を取れば誇らしい気持ちになったし、65点だとお母さんに見せるのやめとこうかな、という気持ちになった。
ものの見方を固定する。それが価値観というもの。
何もしなくていい日曜日に裏打ちされた、全速力と全脱力の日々。
自由に自分の好きなときに好きなことができる。
よくよく考えてみれは、それを「いいことしかない」としか思えてない、見えてないなら、ちと視野が狭くなっていたかもしれない。
哲学を勉強したと自認するなら疑い深くありたい。
そんなめんどくさい考え方する?と言われても。
基本、哲学者は変人だからね。
例えば以前の私には悩みがあった。
空き時間があるとついついカフェに入ってしまう。
カフェに入れば300-600円くらいはかかる。それが頻繁ともなれば一ヶ月トータルで結構な出費だ。
今はいい。カフェの雑音を聴きながらリラックスするのは楽しいし、家計も赤字でない。けれどこれから老後を迎えたとき、毎日カフェに行く経済力は無かったりするかもしれない。
そのとき私は、カフェを我慢できるのか?我慢することにストレスは感じないのか?やっぱり我慢できなくてカフェ代で貯金を切り崩してしまわないか?
そういうちぃーちゃいことだけど、けれども割と本気で心配していた。
子育てが始まって得ていたもの
そういえば。
あのカフェ問題は、綺麗に解決していたな。
そもそもカフェに行けやしない。
たまに夫と交代して自由時間があっても毎回カフェに行ったりはしない。貴重な3時間を有効に使いたいから、行き帰り歩いたり電車乗ったりする時間も無駄に思えたし、そもそもあちこち行ったり来たりは疲れるのだ。帰ってからもこどもの世話があるのだし、疲れすぎは避けたい。
そうして私は目的地を絞るようになった。
今日は体がガチガチだからスーパー銭湯に行くのだ、と決めたら、まっすぐ電車のホームに向かう。
今日はぼーーっとのんびりしたいと思ったら、まっすぐカフェに駆け込む。
ん?
目的を絞る?
それが今の生活のbestなのか?
時間と体力がたくさんあるときは、あれもこれもとなって取捨選択ができなかった。
ペースコントロールが強制させるからこそ。
色々なことを自分の好きにできないからこそ。
自分の状態を観察して、いま一番必要なことを選ぶ。
そういうことを、知らず知らずしているのかもしれない。
もしかして。
以前の暮らしが羨ましいと思っていたのは、
ママになった覚悟が足りないというより、
自覚がなかっただけなのかもしれない。
子育ては長距離走。
以前のように短距離走の全力ダッシュはできなくなったかもしれない。そもそも全力ダッシュは長距離走での戦い方ではない。お正月の箱根路をテレビの前で応援しているとき、見ていたじゃないか。
先頭走者の後ろでじっと、その時を待つ。
レースの駆け引きがすすみ、いざ時が来たと察知すればすっと前へ出る。
7割ペースだからこそ、選択と集中を研ぎ澄ませる。
私はそういう、子育てランナーになったのだ。
新米ママの独白
ここまで3回にわたって、短距離走から長距離走になったジレンマとたたかう新米ママを書いた。
いまでも、自分の時間を自由に使えるというのは、やっぱり羨ましいと思う。魅力的だ。
そういう自分がいる一方で、
赤ちゃんの構って攻撃と終わらないお世話の合間に、
したたかに、長距離走ランナーとしての自分を育てつつある。
そう思えることが私を支えている。
おわりに、
そもそも日々の家事育児の合間にこうやってああだこうだ思考を巡らせられていることに、感謝をしたい。
周囲の人が支えてくれているから、心に少しのゆとりが持てるから、こういうことができているのだ。