お手伝い争奪戦

都水のノスタルジア_第9話 【お手伝い争奪戦】

「卒業設計とは思いやりの結晶です」

この間のゼミで北里教授に言われてから、容輔は考えていた。

確かに今まで建築を利用する人を中心に空間化に取り組んで来たのも事実だったが、それでも卒業設計では誰もやったことのない建築を提案をしたいと思っていた。

容輔が仮にも現段階で取り組みたいと考えている「都内の水辺」について、北里教授やTAである大学院生に否定されたわけではないから、それを【テーマ】に進めてみてもいいのだが、、、どうしてもやはり、「この計画は面白いのかどうか」が先行してしまう。
建築で取り組むべき【問題点】を建築で【解決】する。当たり前のことだが、「面白さ」を考えると途端にバランスが崩れてしまった。

「なんとか次のゼミまでに【テーマ】を決めなければ」

容輔はその悶々とした気持ちをどうしても拭い切れずにいたのだ。

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第1回目のゼミが終え4月中旬になると、長い長い春休みが終わった。授業がスタートするのだ。

とは言っても、大学4年生には、学科全体で共通する授業、つまりは必修科目はほとんどなく、容輔も「設計Ⅴ」の授業しか履修しないことにした。

容輔が豊洲工業大学に入学した年の2年前から、一級建築士の受験資格を得るのに必要なものは、建築学科の卒業証明書ではなく単位取得証明書に変わった。

必修科目の単位を取得できていない場合、一応、卒業はできるが、一級建築士になるために普通よりも長いの実務経験が必要になる。そのため必修科目の単位が足りていないものは必死に授業を履修するしかない。

容輔は勉強が嫌いではなかったので、順調に単位を取得していた。

そのため、週に1度の「設計Ⅴ」の授業以外の日は、学校に行くことなく実家から最寄り駅にあるカフェでエスキスすることが多かった。もともと3年生の頃からコンセプトやプランを練るのはカフェでやるのが効率が良いと思っていたから、4年生になった今ではそれが当たり前になっている。
あまりにもカフェでエスキスすることが多く、たまに学校に行っても、製図室ではなく近くのカフェに行っていた。「カフェスキス」という言葉が誕生させたのは容輔なのではないかと友<第2位>に言われたこともある。

研究室が同じになってからは、辻谷裕<第6位>と良く一緒に近くのエクセルシオールに行っては、お互いの案に意見を出し合ったりもしていた。

「設計課題Ⅴ」の授業は1年の前期のみの授業だが、4回の即日設計と1回の1ヶ月課題がこの授業のカリキュラムだった。1回の課題では、とあるコンペに挑戦するというものだった。

3年生時に知識アップのために行なっていた「毎日一建築」は、確実に容輔に力をつけた。特に「設計課題Ⅴ」の即日設計では、課題を見てこうしたいと決めると、建築的なアイデアが自然と湧き出るようになっていた。

4年生になった今でも容輔は「毎日一建築」を続けており、ノートは3冊になっていた。

「設計課題Ⅴ」の4つの即日設計は、意匠系の教授である北里教授、東准教授、南野教授、計画系の中居教授がそれぞれ担当を持っている。容輔は4つの即日設計で3つを優秀作品に選んでもらうことに成功した。

特に北里教授の「橋」の課題では、「君の設計の中で1番良かった」と北里教授に言われるまでに成長していた。

4/3が優秀作品となっているのは、容輔だけだったし、それは上森<第1位>よりの多い数字だった。

この時から容輔はランキングの変動を考え始めていた。

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4年生になり、1番変わったことは、製図室という建築学科の住まいに新メンバーである3年生が暮らし始めることだった。

別に誰が来るか知らないわけではないのに、むしろ知っている顔が来るのに、ドキドキするのはなぜだろう。去年まで浦和キャンパスにいた通っていた後輩がここ豊洲キャンパスに来ただけでワクワクするのだから、昔テレビでやっていた「あいのり」で新メンバーが入るたびにテンションが上がる既存メンバーの気持ちも理解できる。

それに容輔には、3年生になった後輩に対してやらないといけないことがあった。

【卒業設計の模型製作を手伝って貰う後輩を探す】ことだ。

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