もっと時間さえあれば?
人生の大半を仕事で埋め尽していると、まとまった休みをとって仕事以外のことがやりたくなるのが普通だと思う。
その内容は人によって様々だ。小説を書くことかもしれないし、カフェをオープンすることかもしれない。サイバーパンク2077を日がな一日プレイすることかもしれないし、草野球に没頭することかもしれない。大抵の人はこういったブループリントが複数存在するはずだ。きっと永遠に叶えられることのないブループリントが。
僕は比較的幸運な人間だ。二度の長期育休を取得し、転職期間は2ヶ月近く休み、いまはまた適応障害という名目で2ヶ月ほど休んでいる(育休が休みかどうかは議論が分かれるが、少なくとも仕事はしなくて良い状況にある)。
何度も長期休みを経験してきて、僕はこれらのブループリントに関するパターンを見出した。長期休みが始まって1日や2日ほどは、溜まりに溜まったブループリントを堰を切ったように処理していくことが多い。そして「たった数日でこれだけの達成が可能なら、あと数ヶ月も休めばどうなるのだ? 月にロケットを飛ばすくらいのことはできるんじゃないか?」という無敵感を味わう。
しかし、時間が過ぎてくると、徐々に焦りが生じてくる。
「まずい、もう休み期間は半分を切っている。ならば、こんなことに時間を費やすべきだろうか? もっと生産性のあることをやるべきではないのか? いや、生産性のないことに邁進することこそ、休暇の醍醐味ではないのか?」
あれでもない、これでもないと、行動を吟味しているうちに1日が終わる。そして、少しずつ時間が削られていき、気づいたときには休みが終わっている。
実際、時間が膨大にあったとしても、もともと思っていたほどやれることは多くない。サラリーマンが「時間さえあれば…」と感じているのは「ガチれば余裕」みたいな話で大言壮語に過ぎないのだ。1日や2日なんてあっという間に過ぎていくし、その積み重ねである1ヶ月もあっという間に過ぎる。僕はたまたま働いてきた期間が多いが、10年単位でニートをする人の気持ちも理解できる。
人によって異なるものの、ニートの大半も似たような焦りと共に生きているのではないだろうか? ニートの周りの人々は「お前は生活に困らないのだからずっとニートでいろ」などと言ってくれることはない。「これからどうするんだ?」とかなんとかせかし立ててくるのが普通である。就職しなければ。アフィリエイトで稼がなければ。起業しなければ。資格を取らなければ。などなど。ニートはなんらかの生産性に向けて行動しなければならないという焦りが生まれ、とはいえ、思うように活動できない自分に嫌気がさして、ずっと焦っているのではないだろうか?
焦っているとき、人は目の前の生活に集中できない。僕は今、「将来について真剣に考えなければならない」という焦燥感を抱えながらも、こうやってnoteを書いている。「こんなことをしていて本当にいいのか?」という気持ちと「とはいえ、書きたいのだよ」という気持ちと「早くこの記事を書き終えて何か重要なことをしなければ」という気持ちがぐちゃぐちゃに絡まり合って、なかなか筆が進まない。こうしている間に、娘が起きて泣き始めるのではないか? 妻が何か話しかけてくるのではないか? そんなふうな焦りも邪魔してくる
結局ずっと焦っているのだ。将来について何も考えなくて良くなるなら、どんなにいいか。そうすれば、僕は書きたいと思ったタイミングで気兼ねなくnoteを書ける。誰かに中断されたって別に構わない。明日でも、明後日でも、好きなときに書けばいいのだ。いま、そう思えないのは、さっさとこの作業を終えて、明日や明後日には重要な活動に取り組まなければならない、などと考えているからだ。
ゲームをやること。本を読むことも同じである。さっさとこれをクリアして、生産性のあることに着手しなければ、という思いから逃れることができない。いや、やっている最中は逃れていたりするのだが、たびたび思い出して罪悪感に苦しめられる。
となると僕たちに必要なのは時間ではなく、安心ではないだろうか。何をやっていても路頭に迷うことがない、という安心だ。それさえあるなら生産性のないことにも邁進できるし、ときどき生産性のあることもやるだろう。
ところで、この生産性という言葉自体にも、僕は疑いを向けている。生産性とは主に「金を稼ぐことにつながるどうかの度合い」を意味している。金を稼ぐことは悪いことであるといった主張を繰り広げている僕は、そもそも生産性という概念自体が、百害あって一利か二利くらいしかないと感じている。
僕はしょっちゅう似たようなことを書いているが、ここまで「生産性」というものに人々が取り憑かれている時代はなかったのではないだろうか。恐らく江戸時代の人々も、縄文時代の人々も、時間当たりの生産性を高めなければならないなどと考えることはなかったはずだ。
単に面白半分で生きていたとしか思えない。蒟蒻を作った人は、「生産性の高いことをしなければならない」と焦りながら蒟蒻を作っただろうか? 思いついた途端に特許を申請し、規模の経済を働かせるために巨大な工場を立てただろうか? そんなはずはない。面白半分で蒟蒻芋を弄り倒しているうちに、気づいたときに蒟蒻ができて、近所の友達に「おい、なんかおもろいもんできたから食べてみて!」と触れ回る程度だろう。それで億万長者になろうだなんて、きっと思わなかったに違いない。
彼にとって蒟蒻を発明することは、その行為自体が目的であった。蒟蒻や富が目的ではなかったはずだ。間違っても、生命維持のためにやったわけではないだろう。
実のところ、生産性信仰と、生命至上主義は繋がっている。生産性とは究極的に確実に生命維持できるだけのストックを蓄えることを目的としている。つまり生命維持が究極の目的だ。だからこそ、食べ物を粗末にすることは、僕たちの社会ではトップクラスのタブーとなる。
食べ物を大切にすることに、実のところそこまで必然性はない。狩猟民の中には食べ物を捨てる量を競うような人々もいる。それに、そもそも食べ物を粗末にしなければ、パンも蒟蒻もうどんも発明されなかったはずだ。昔の人々はもっと食べ物で遊んでいたに違いない。焦ることなく、それでいて結果的にパンも蒟蒻もうどんも発明された。
つまり、生命や生産を血眼になって追い求めることは必然ではない。それはあくまで宗教的な盲目なのだ。
僕は別の宗教的な盲目を提示してみたい。以下の記事のように、人が自由に楽しく過ごすことそれ自体を目的にすべきだと考えているのだ。
自由に楽しくやった結果、蒟蒻が発明されてもいいし、発明されなくてもいい。誰かに命令されながら不愉快な想いの中で蒟蒻のアイデアを絞り出すくらいなら、自由に過ごして、何も生まれない方がいい。それくらいのラフな気持ちで社会が組織化されてほしいと思っている。
なぜ「食べ物がたくさん生産されること」や「食べ物の生産効率を上げること」は良いことなのに、「楽しい」とか「自由になれる」は良いこととはみなされないのか?
おそらく僕たちは楽しいことや自由にやることは悪いことだと考えていて、苦しいことや自由を差し出すことが人や社会にとって必要なことだと感じているからだろう。
つまり、人が欲望することはろくなことではない、という前提があるのだ。その前提が生まれた経緯は、以下の記事でも考察した通りである。
結局、僕が言いたいことは、「権力と支配が悪い」。そんな感じだ。
と、僕はなんの生産性もない議論を、延々とnoteで繰り広げている。これをやっている時間はやっぱり楽しい。でも、これをやっているだけじゃ住宅ローンを払えないから困っている。
あぁ、早くベーシック・インカムを寄越したまえ。この前、ポイント目当てでマイナンバーカードに公金受付口座の登録をやった。いつでも公金を振り込んでくれていいぞ、政府よ。
時間よりも、安心が欲しい。安心とは自由だ。つまり自由が欲しい。もっと自由があったなら? 何をして過ごそうか。