公共事業を受注しよう【雑記】
この前、こんなポストを投稿した。
労働しないことも一種の社会貢献であるという主張を繰り広げている僕は、生活保護を後ろめたいものから、ポジティブな評価に変えたいと思った。そこでこんなポストを投稿したわけだ。
労働とは、他者に貢献する営みである場合もあるが、ますます他者を害したり、搾取したりするための営みと化している。そのように解釈すれば労働せずにお金を受け取る生活保護は一種の社会貢献であり、その社会貢献に対して政府がお金を出して発注している公共事業であると考えよう・・・という趣旨のポストである。
それに対して、嬉しいDMをいただいた。
彼は以前会ったとき、生活保護の受給を検討していると話していた。どうやら彼は実際に受給(いや受注)し、生活のゆとりを手に入れて、ホームレスの支援活動に着手し始めたらしいのだ。
良いことでしかない。良いことでしかないのだけれど、彼は「生活保護」というネーミングに後ろめたさがあったらしい。で、そのネーミングの後ろめたさを変えようとした僕のポストに救われた部分があったという。なんだか良いことした気分である。
僕は一度会って軽く話しただけなので彼の人となりはよく知らない。だが、一般的には怠惰だとか、「彼らに金を与えれば怠けるだけだ・・・」などと考えられている無職である。その無職が、最低限の金を手にし、生活にゆとりを得た途端、人々に貢献し始めたのである。
僕は『労働廃絶論』の一節を思い出さずにはいられなかった。
労働に疲弊する人たちは、「もうなにもしたくない」「ダラダラと寝転がっていたい」と口にするかもしれない。実際に労働せずに済む金を手にしたならそのような行動をとる人もいるだろう。だが、疲労から回復した途端に、多くの場合で彼らは行動したくなるはずである。
もちろん、この主張を説得力のあるものにするならば、生活保護受給者の大半がボランティア活動に勤しんでいるというデータを揃えてくる必要がある。しかし、そのようなデータはないし、実際そうはなっていないだろう。つまりこれは僕のチェリーピッキングなのである。
しかし、このような実例はアンチワーク哲学の考え方が広まっていけば、もっと増えていくのではないかと、僕は考えている。DMの主はオフ会に参加してくれるくらいに、アンチワーク哲学に共鳴してくれている(のだと勝手に思っている)。アンチワーク哲学は、他者への貢献は欲望の対象であり、それを追求することが幸福の一形態であることを説明する。そのような考え方に共感してくれているであろう方が、実際にそのような行動をとり、実際に前向きに人生を歩み始めることができたわけだ。「僕のおかげでそうなった」と言いたいわけではない。僕の本を読まなくても、彼が同じ行動をとったかもしれない。だが、少なくともアンチワーク哲学的な発想が自然と彼の中に根付いていたからこそ、このような行動につながっているわけだ。
とはいえ、アンチワーク哲学は未だ社会的にはトンデモ理論であり、市民権を得ているわけではない。多くの生活保護受給者は「社会への貢献」を本質的に苦痛であり、金を貰わねばやりたくない行為であり、「怠惰な自分はそんなことをやりたくない」と思い込んでいる可能性が高い。言い換えれば、食わず嫌いしているのである。
むろん、それを強制することがアンチワーク哲学の主張ではない。あくまで自発的な意志に基づいて取り組まれるべきであり、「ぜったいにやりたくないのだ!」と言っている人を強制したり、非難することはない。僕は上手いラーメン屋を勧めるような感覚で、他者への貢献を勧めている。食わず嫌いしている人が、食ってみたら意外とうまいということはあり得る。実際、誰かに貢献することで喜びを感じた経験は、どんな人にだってあるだろう。
もちろんボランティアの現場にも強権的な人がいたり、不愉快な命令が存在したりすることもある。しかしそれはボランティアが苦痛なのではなく、強制が苦痛なのであろう(労働が苦痛なのと全く同じ理由であり、そのボランティアはむしろ労働である)。害虫だらけの飲食店でラーメンを食うのは最悪の経験だが、ラーメンが不味いわけではないのと同じである。清潔な店でラーメンを食えばいいのだ。
公共事業の受注という選択肢を取れる人は少ない。だからこそ万人に公共事業を発注するベーシックインカムを僕は求める。とはいえ、アンチワーク哲学は公共事業を受けて生きる無職の指針になるかもしれない。僕がやってることは壮大なプロジェクトすぎて人助けにはならないと思っていたけど、なにかできるかもしれない。そんなことに気づかせてくれたDMであった。