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道徳について、学んで、考えたこと

人間は天使でもなければ獣でもない。だが不幸なことに、人間は天使のように振る舞おうと欲しながら、まるで獣のように行動する。
パスカル『パンセ』

NVCが諸悪の根源として槍玉にあげた「道徳」。そのことばかり、最近は考えている。


道徳とは、諸悪の根源?

NVCは、道徳がなくても人は利他的に振る舞えると主張する。むしろ、道徳が、あらゆる意思疎通を不可能にし、暴力を蔓延させる原因とまで言う。

僕は、これらの主張に全面的に同意できた。「~すべき」という権力者の視点は、本来僕たちが最も考慮すべき人間の感情やニーズを見えにくくし、大義のために殉職させるような暴力が蔓延する根本原因であるように感じている。

しかし、NVCの提唱者マーシャル・ローゼンバーグは、「道徳がなぜ生まれたのか?」という疑問に答えようとはしなかった。

僕はそれが知りたい。

今の時代、道徳は明らかに暴走している。しかし、道徳というものが全く存在しない世界を創造するのも難しいし、何かしらの必要性に応じて、発生したもののようにも見える。真実はわからない。

だから僕は、道徳の起源を探る旅に出た。様々な本を読んだ。そして、学んだ。その途中経過を、ここに記そうと思う。


自然状態の道徳は、どのようなものか?

第一の水先案内人はプナン族。厳密に自然状態とは言えないものの、僕たちよりは自然状態に近い人々だ。

この本のタイトルの通り、プナン族の人々はありがとうも、ごめんなさいもいらないらしい。

狩猟や漁労に出かけたり、用事で出かけたりする時、失敗や不首尾、過失について、プナンは個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことはしない。失敗や不首尾は、個人の責任というより、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多い。失敗や不首尾があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされることはまずない。ましてや個人の責任が追及されるようなことはなく、たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果を期待できそうにない今後の方策が立てられるだけである。
奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

なんとも羨ましい。この世界には謝罪会見も、反省文もないようだ。

最後の一文は、狩猟採集民族(に近い人々)の「能天気で、進歩を知らないバカな人々」というイメージを僕たちに提供するが、よくよく考えれば僕たちも似たようなものだと思う。謝罪会見と、事実調査委員会が、何かを解決している様子を僕は知らない。

ならば、「狩猟採集民は、進歩を知らないから反省しない。我々は進歩するために反省する」と単純化するのも、バカバカしい。大抵の反省は進歩を装ったショーに過ぎないのだから。

ここまでは「ごめんなさい」が存在しないという話だ。なら「ありがとう」はどうなのだろうか?

そもそも「ありがとう=有難う」が発生する前には「貴重なリソースが分け与えられる」という事実が必要だ。「貴重」という概念が発生するためには、「誰かに所有されている」という概念が必要になる。その所有という概念が、プナン族には存在しないらしい。

だから、「所有」に慣れ親しんだ日本人が、プナン社会に飛び込めば、こんなことが起きる。

人々は、他に使えるものがない場合には、いつの間にか、私の所持金や所有物(サンダルや長靴、カバンなど)を勝手に使ったり、使いまわしたりするようになったのである。いったん使いまわされると、そのことは常態化し、時にはエスカレートして、私の手元に戻って来ないものもあった。
奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

つまり、もともと「みんなのもの」なんだから、「ありがとう」なんて必要ないのだろう。必然的に、貸し借りの概念も育たない。

だが、この感覚は、自然と身についたものではないらしい。教育によって後天的に植え付けられたものだという。

幼い子どもたちは、与えられた果物やお菓子などを自分だけのものとして独占しようとする。それは、地球上どこに行ってもよく見かける光景である。プナンの子どももまた然り。プナンの大人たちは、まずこの幼な子の所有慾に手をつける。幼い子どもらは、与えられた食べ物は決して独り占めにしてはいけないよ、隣にいる誰かにも分け与えなければならないよ、と諭される。
奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』
慾を捨てよと、プナンは言う。いわば「本能」としての個人的な所有慾は、徹底的に殺がれる。つまり、人間には、産まれながら、自動的に共同所有の観念が植えつけられているわけではない。個人的な所有慾は殺がれ、後天的にシェアする心が養われる。
奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

ある意味で、これは「道徳」と呼べるものだと思う。現代のように過剰に道徳が暴走している時代の前にあった、「必要に応じた道徳」ということになるのだろうか?

ただ、この筆者の「所有慾=自然、シェアする心=人工」という二分法には意義を唱えたい。僕の子どもを見ていても、自分自身の心を見ていても、誰かに分け与えることには純粋に喜びを感じることもある。所有したい、独占したいという欲望が自然なものなら、シェアしたいという心も自然なものだ。その両者のバランスを意図的に調和させていくことが、道徳の本来の役割なのかもしれない。

では、なんのために調和させるのか? それはおそらく、共同体が生き延びる可能性を高めるためだ。

この方向性から、道徳と宗教の起源を論じたのが、アンリ・ベルクソンだった。

道徳とは、言い換えれば禁止(タブー)と義務だ。プナン族の場合、所有を禁止され、共有を義務付けられている。

ベルクソンに言わせれば、本来これらには意味がある。しかし、その意味を個人が理解していることは稀だという。

タブーは知性の意見を聞くことなく、きっぱりと知性的行為を制止するものであった以上、個人の観点から見れば非合理的なものだが、社会と種に利益をもたらすものである限りは、タブーは合理的なものであった。
アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

要するに「ダメなものは、ダメ!」で押し付けられてしまうのが道徳なのだ。

例えば僕たちはテーブルの上に足を乗っけることに関して「ダメなものは、ダメ」と言われて、それは自然な習慣となった。いちいち「テーブルに足を乗っけることは、大地を歩いて足にまとわりついた菌が食物に混入する恐れがあり、衛生面の危険性が発生するため、足を乗せないでおこう」と考えることはない。自然なものとして染み付いている。

本来はこれは自然ではない。重力に逆らうことはできないが、足をテーブルに乗せることはできる。しかし、この2つを僕たちは混同する。ベルクソン曰く、それが習慣の力だ。

習慣が、自然の諸作品のなかで必然性が果たすのと同じ役割を果たす。
アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

習慣の力強さと心地よさは、誰しもが知るところだ。プルーストは帰路についていて家の敷地内に入った時の足取りを「習慣が私を子供のように抱きかかえ、ベッドに運んでくれる」と表現して、僕はその的確さに感動したのを覚えている。

そして、習慣が、必然へと変化していく。

物理法則であれ、社会法則であれ、道徳法則であれ、どんな法則も彼らの目には命令と映る。法則が事実に先立って存在していると信じるのをやめることはほとんどできない。
アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

さて、ここまでは、道徳はなんら悪いものではないように見える。確かに大人が子供を押さえつけるパターナリズムを感じるものの、それは人間社会の膨大な歴史が蓄積してきた「生き残るための知恵」のようなものであって、なんら個人や社会に害をもたらすものではないかのようだ。

しかし、ここから道徳が悪さをしていくのだ。


道徳は、変化して、形骸化していく?

個人の知性はタブーの概念を自分のものとすることで、偶然的な観念連合により、タブーをありとあらゆる方向へと恣意的に拡張したに相違なく、その際、自然の起源的意図と呼びうるものを気にかけることはなかった。
アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

つまり、初めは生存のために合理的だった道徳を、自分に都合のいいように拡大解釈する輩が現れたというわけだ。道徳(≒習慣)は、知性でいちいち考えることをしないため、拡大解釈された道徳が果たして合理的かどうかをいちいち人々はチェックしないのか、あるいはチェックを免れたものがたくさんあったのか、とにかく、合理的でない道徳が量産されていったのだ。

そして、ややこしいことに、知性というチェック機能は、後から余計なことをし始める。つまり、新たに生まれた道徳を理論的にバックアップするのだ。

知性が行う活動は、定義からして社会的諸要求に服従するものたる一つの行動に、より多くの論理的生合成を与えることであった。
アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

これは仏陀やムハンマドの死後に起きたことと同じメカニズムだと思う。ロジックと惰性が相前後し、混乱し、はじめは合理的だったものが、非合理になり、それが合理的に根拠づけされていくわけだ。

そして、社会はどんどん混乱していき、現代の奇怪なマナーやモラルが生まれ、保存されていく。

…と、単純に説明していいものだろうか?

これはこれで納得もできるが、もう少し旅を続けたい。「都合よく拡大解釈」の部分を、熟考してくれた案内人が他にもいる。ニーチェだ。


奴隷が、道徳を生んだ?


奴隷の反感ルサンチマンが道徳を生んだというニーチェの主張は有名だ。

ニーチェが言うには、人間には「権力への意思」がある。支配者階級は、権力への意思に忠実に勝利を収めた。一方で敗北した奴隷にも「権力への意思」はあるが、支配されているうちはそれが満たされることはない。だから奴隷は、その堪え難いジレンマを解消するために、自分の立場を正当化する道徳を生み出す。

返報しない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』に変えられる。
ニーチェ『道徳の系譜』

ニーチェの説明は、ベルクソンとはある意味で対照的だ。ベルクソンの説明では、道徳は支配者側が自分の都合を押し付けるために作られたものだと解釈できる。一方、ニーチェは逆で、奴隷が自分の苦境を合理化するために道徳を作る。

おそらく真実はこの中間にありそうだ。つまり、支配者は自分に都合のいい道徳プロパガンダを展開し、反抗的な一部の人々を除いて、大多数の(ニーチェの言う)奴隷たちは、そのプロパガンダを合理化し、正当化し、受け入れる。

奴隷は必然的に、欲望を捨て去る禁欲主義に帰結する。つまり、解脱して、精進料理を食べて、せっせと座禅に取り組めば、自分の苦境を完全に忘れ去ることができるというわけだ。

ニーチェの面白いところは、これでも人は完全に欲を捨てたことにはならないと主張している点だ。完全に悟りを開いた人物は、もはや苦しみを欲すると、ニーチェは主張する。

人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである。
ニーチェ『道徳の系譜』

こういう禁欲主義はベルクソンも否定的で、彼も仏教を批判していた。ベルクソンは生の弾みエラン・ヴィタルという用語をニーチェのいう「権力への意思」と似たような意味で使っているが、最高の人間は生の弾みエラン・ヴィタルを拠り所として活動するべきだということを主張している。

僕も中途半端な仏教者の事なかれ主義にはうんざりするものの、禅というものが突き詰めた境地は、もう少し先にあるように感じる。完全なる禁欲主義は、禅のロードマップである「十牛図」によれば、ステップ8の段階だ。9、10の段階では、「一周回って好き放題やってもOK」的な方針が示される(たぶんね)。これはニーチェの言う貴族的な生き方に到達しているように見える。

ただまぁそれでも、結局は仏陀も苦しみから逃げようとして菩提樹で座禅をしていたわけだし、ニーチェやベルクソンの批判も一理ある。


負債が、道徳を生んだ?

さて、実はニーチェの『道徳の系譜』は、別の視点からも、道徳を説明してくれている。それは「負債」だ。

負債とは数値化された義務である一方で、未来への約束でもある。約束は必然的に、自由を制限する。

一個の約束者として未来としての自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた算定しうべき、規則的なものになることをいかに必要としたことか!
ニーチェ『道徳の系譜』

つまり債務者は、自分は貸付に値する責任感を持った人間であることを債権者にアピールすることで、自分を規則的にした。ベルクソンが「自然は過剰」と言ったように、人間も本来は過剰であって予測不可能なものだ。

しかし負債によって、人間の中に秩序と予測可能性が要請される。これが道徳になっていく。

困ったことに、誰が誰に何をどれくらい借りているのかという「負債」は、実は自由自在に解釈することができる。

そのことは、デヴィッド・グレーバー の『負債論』から学べることが多いと思う。

グレーバーは、「原初的負債」という途方も無い負債の網を想像する。

例えば、奴隷を殺さずに済ませてやったなら、奴隷は奴隷主に命を借りていることになる。命に値するものを返済するなんて、どうすれば可能だというのだろうか?

あるいは、人は社会の積み重ねに依存している。親から受けた世話だけではなく、火を発明した人、初めに小麦を栽培することを思いついた人、ナイフとスプーンを発明した人、日本国憲法を制定した人など、貸しを作ってくれた人たちにいちいち特許料を払っていたとすれば、ビル・ゲイツの懐も火の車になるだろう。

これらは、無限の負債として想像することができる。ならば、これを拡大解釈すれば、都合よく人を強制労働することも可能だ。

ひとはみな人類、社会、自然または宇宙に対して無限の負債を追っているが、じぶん以外の別の誰かが支払い方法を指示できるわけではない。もしそうだとすれば、確立された権威のシステムのほとんどすべて(宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制)をそれぞれ異なる欺瞞の方法とみなすことができる。それらは計算不可能なものを計算できるとうそぶき、制約なき負債のうちのあれこれの部分をかくかくしかじかのように返済せよと指令する権限を詐称するに過ぎないのだ。
デヴィッド・グレーバー 『負債論』

『負債論』によって明らかにされたように、負債とはつまるところ貨幣なわけなのだから、貨幣の誕生は支配階級が道徳を恣意的に生み出した瞬間とも言えそうだ。

一周回ってきた。ベルクソンが言った「拡大解釈」の話と同じだ。

もう、疲れたよ。

そして、僕は眠った。


どうすれば、道徳から自由になれる?

公正な社会を想像しようとするとき、均衡と対称のイメージ、すべてが均衡している優雅な幾何学を喚起しないことはなんともむずかしいのである。
デヴィッド・グレーバー 『負債論』

こんな、元も子もないことをグレーバーは言う。確かにその通りだけど、ひどいよね。社会というものを想像するとき、僕たちはあたかも全てを計算できる神であるように、道徳を振りかざす。

結局のところ、こうやって神の視点を振りかざすことが道徳の起源なのだろうか。

大杉栄も良いことを言っている。

法律が軽罪人を罰するのは、わずかに数ヶ月あるいは数ヶ年に過ぎない。けれども道徳はその上に、更にその人の生涯を呪う。
飛鳥井雅道 編『大杉栄評論集』

そうではなくて、やっぱりNVCが言うように「感情」に注目すべきなのかもしれない。

ここに苦痛の感情があるから、これをしてほしい。云々。子どもの行動を変えるのにも、こう言うやり方が通用するだろうか。

わからないけれど、やってみようか。感情を忘れずに。

そういえばかつて僕は、感情をむき出しにすることを忘れていたときに、清少納言『枕草子』の感情むき出しっぷりに思わず関心してしまった。

大義を語る男たちと違って、あっけらかんとした女性は素敵だ。


結論:感情を大事にしよう

僕は自己責任という言葉が嫌いだ。自己責任だろうがなんだろうが、そこに悲しみや苦痛という感情があるなら、どんな原因があろうが、救済されてしかるべきだと思っている。例えば、想像を絶するほどの怠惰が原因でホームレスになった人にも食事が与えられるべきだと思っている。

救済に値するか、そうでないか。本人の能力不足か、男女差別か。そんなことを判定しようとする姿勢が諸悪の根源だと、かねがね思っていた。

この判定しようとする立場が「道徳」だったのだと、NVCに気付かされた。そして、色々と道徳の歴史を振り返っても、その確信は揺らがなかった。むしろ、道徳の欺瞞っぷりを思い知らされるばかりだ。

道徳を捨てて、感情に生きる。これが僕が知る全て。これは語義矛盾のような気もするが、まぁ別にいいか。とにかく、そんな風にして生きていこう。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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