路上で本を売ろうとした結果【出版社をつくろう】
中だるみの水曜日。それでも労働者たちは、たるみきった土手っ腹とは裏腹に、きちんと労働者の顔をして街を歩いていた。
おそらく彼らは1人の人間として街を歩いてはいない。労働者として歩いている。
労働者として道を歩くとき、人は一定のコードに則っている。道端の花の香りを嗅いではいけない。コンタクトレンズのクーポンを受け取ってはいけない。アンケートを取ろうとする投資マンションの営業マンの話を聞いてはいけない。ギターを弾くおっさんの前で足を止めてはいけない。本を売ろうと突っ立っている男に視線をやってはいけない。
労働者として生きる場合、こうしたコードを全く持たずにいることはむずかしい。なぜなら彼にはさっさと終わらせなければならない労働が待っているからだ。労働を終えたあとにようやく彼らは待ち侘びたようにタイムカードを切り、ネクタイを緩め、赤提灯のもとに逃げ込む。あるいは自宅の鍵を開け、風呂に入り、ベッドに飛び込みYouTube鑑賞を始める。人間に戻ることのできるその瞬間のために、彼らは最短ルートで労働者として義務を成し遂げる。
さて、僕は街角でこのボードをぶら下げて、本を売ろうとした。
だが、数十分のうちにこれはうまくいかないと悟った。彼らが労働者のままであるならば、ベルトコンベアから流れてきた不良品のように、彼らの視界から僕が自動的に弾き出されるのは必然であろう。
『14歳からのアンチワーク哲学』を書店が買ってくれないなら、エンドユーザーに直接届ければいいと僕は考えた。この発想は悪くないと思う。だが、それを成し遂げるためには、僕は人間に出会わなければならないらしい。
人間はいつ、どこにいるだろうか? 赤提灯の下に労働者としての皮を脱ぎ捨てた男たちが歩く夜の飲み屋街だろうか? あるいは休日だろうか? 公園だろうか?
わからない。だが、どこかにはいるはずである。労働は、人間を殺そうとするし、労働者は死んだフリをする。それでも、人間を殺すことはできない。世界をキラキラした目で見つめ、出来事を探し回り、自ら働きかけて世界に影響を与えたい。その生物としての根本的な欲望を、誰が根絶やしにできるというのだろうか?
サン=テグジュペリは、僕たちの中にいるモーツァルトはとっくに虐殺されていると言った。だが僕はそうは思わない。粘土のように凝り固まった老人の肩であろうが、崩れるほど強く叩けば、彼の中にいるモーツァルトを叩き起こすことができるはずだ。
僕たちの欲望は労働によって無酸素状態にされているが、それでも燻り続けている。すべて燃やしてしまえばいい。自分を縛りつける鎖すら、思いっきり息を吹き込んで、燃やしてしまえばいい。僕たちにはまだ息がある。生きることができる。粋がることができる。
・・・とまぁ、かっこよくエッセイに仕上げてみたが、たんに本が売れなかったという話である。また売れる場所と時間を探してみたい。
今思えばボードも胡散臭い。見ようによっては「やりたくもない労働に縛られていませんか? セルフブランディングのノウハウを学ぶことで、自由な人生を手にしませんか?」と情報商材を売りつけてきそうな雰囲気も感じられる。
てなわけで、色々と改善の余地ありである。また、1人でやっているのもよくない。人は賑やかなところに集まるのだ。次は誰かを誘ってみよう。
やっぱ夜の繁華街かなぁ。労働の愚痴を散々ぶつけ合ってから赤ら顔で飲み屋から出てくる男女かなぁ。
となると決戦は金曜日である。次のレポートも乞うご期待。「ここでやってほしい」といった要望もあれば、ぜひ。
※そもそもネットで売れるならこんなことをする必要はないのだ。買ってくれたまえ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!