みんな勘違いしていると思うけど、教育格差なんて問題ではないよ。

WEEKLY OCHIAIの教育格差の話を見た。

教育格差っていうのは、すごく抽象的で、誰が何を問題として捉えているのかが分からなくなる。でも大体、地域、親の学歴・収入によって教育の機会に差があることを問題視しているのだと思う。今回のWEEKLY OCHIAIもそんなことを話していた。これに僕は違和感を覚える。これの何がダメなのだ、と。

こういう議論をする識者の方々っていうのは、だいたい意識の高い社会階層にいる。つまり、大学でコンピューターサイエンスを学び、マッキンゼーに就職した後でベンチャー企業を立ち上げる人生が幸せで、中卒でドカタをしながら休日はパチンコとBBQを楽しむという人生は不幸という前提に立っている方々だ。

本来は、誰しもが高い学歴を目指したいはずだし、収入アップを目指したいはずで、ドカタや清掃員、トラックの運転手に甘んじている人は、社会の犠牲者だ、と。

だから、誰しもがベンチャー起業家コースを選択できる社会を目指すべきだ、と。

この前提はたぶん間違っている。

僕は職業格差が解消されるなら、教育格差なんてどうでもいいと思っている。ブルーカラー労働者が賃金的に社会的に敗北者として扱われることがなければ、あるいはシングルマザーのレジ打ちで子供を大学に通わせられるようになれば、教育格差なんて気にする必要があるだろうか。

そもそも、全員がインテリでハイカラな仕事(学者とかベンチャー企業家、コンサル、作家など)に就いたなら、社会は成り立たない。Amazonの倉庫でピッキングするおじさんは社会に必要だ。問題なのは、このおじさんとその子供が貧困ということだ。

貧困は命を奪う可能性がある。人としての尊厳を損なう可能性がある。これは防ぐべきというのは間違いない。ただ、教育の場で底辺だった人でも、つまりAmazon親子でも豊かに暮らせるのなら、教育格差は問題ではないと思う。

Amazon息子がコンピューターサイエンスを学びたいと思った時に、学べないのは問題だと思う。しかし、そもそも貧困がなくなれば、ちゃんと大学に行けるはずだ。

「そんな親に育てられればコンピューターサイエンスを学びたいとすら思わないのではないか?これはチャンスが与えられていないのと同じだ。」という問題意識もあると思う。しかし、人生には無限の選択肢がある。その全てを幼少期に提示するなんて土台無理な話だ。僕はそれなりに裕福な家で育ったが、コンピューターサイエンスを学びたいと思ったことはなかったし、アフガニスタンで医者をするという人生があることも知らなかった上、チベット仏教の僧侶という進路も当然検討しなかった。

話はそれたが、教育格差を問題視する議論には、ブルーカラーは貧困で当然だという前提があることに気づいた。これこそが問題なのではないかと思う。

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まとも書房/哲学者ホモ・ネーモ
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