自由な不自由が欲しい【雑記】
「完全な自由なんてない。自由は良いものとは限らない。不自由のなかにこそ自由があるんだ」的な言葉は、不自由を押し付けようとする人がよく口にする言葉である。実際言っていることは間違っていない。しかし、やろうとしていることが間違っている。
たしかに完全な自由を手にしている人物がいたならば、それは神である。僕たちは万有引力の法則から逃れられないし、ウンコをしなければならないという運命からも逃れられない。それに、自由であればあるほどいいとも限らない。自由は重荷になる場合もある。「自由に文章を書いてください」と言われるよりも「衆議院選挙について文章を書いてください」と言われるほうが書きやすい。散文もいいけれども、五・七・五という制限があった方が自由な発想が生まれることもある。
その通りである。なにも間違っていない。
だが、見逃されている点がある。それは「どんな不自由を受け入れるのかを、誰が決定するのか?」という点である。
自由な意志によって五・七・五という不自由を受け入れて俳句を詠むことと、誰かに強制されて俳句を詠まされることはちがう。まったくちがう。不自由に不自由を押し付けられることと、自由に不自由を受け入れることとの間には、大きな断絶があるのだ。不自由にはたしかに効用があるが、それを不自由に押し付けられることには効用があるとは限らない。むしろネガティブな効果をもたらす可能性の方が高い。しかし、件の言葉を吐く人は、その両者をごちゃ混ぜにしながら語っているのである。
もちろん、自由に受け入れたわけではないが物理的に避けようのない不自由も存在する。たとえば、食事しなければならないことは自然から与えられた不自由である。しかし、多くの場合、自然から押し付けられた不自由は、自らの意志で手懐けることが容易である。人はさまざまな料理を生み出し、そこに意味を見出し、人生の豊かさを見出した。また、ウンコや呼吸を心の底から嫌悪する人も稀である。
つまり、次のように言うことができる。不自由を自由に受け入れたとき、あるいは逃れようのない不自由を手懐けたとき、人は自由になる。
逆に言えば、逃れようのない不自由を味わうときや、不自由を恣意的に押し付けられるとき、人は不自由を感じる。
このように考えれば、不自由には4つの種類があることがわかるだろう。
不可避かつ不愉快 = 「病気」「けが」など
不可避かつ不愉快でない = 「呼吸」「食事」「排泄」など
不可避でなく不愉快 = 「労働」「強制されてやる俳句」
不可避でなく不愉快でない = 「遊び」「自由にやる俳句」
さて、ここで改めて「完全な自由なんてない。不自由のなかにこそ自由があるんだ」と言っている人がなにをしようとしているのかを考えてみよう。彼が押し付けようとしているのは紛れもなく4である。しかし、それをあたかも3であるかのように装っている。
彼は相手を自分の望むままに操りたいと考えているはずだ。「いや、相手のためを想って・・・」と彼は即座に反応することが予想されるが、相手のためを想っていようが想っていまいが、相手をコントロールしたいと考えていることには疑いの余地はない。つまり、彼は彼が拵えた不自由を、相手に押し付け、なおかつそれを相手が自由な意志で受け入れるように強制したがっているのだ。
そのような状態を隷属と呼ぶわけだが、なるほど隷属のなかにも自由を見出すことは可能ではある。ぶつくさ文句を言いながら社畜っぷりを自慢する社畜は、隷属にほんのわずかな自由意志の欠片を重ね合わせることに成功している。しかし、やはりほんのわずかな欠片にすぎない。牢獄の鍵が閉まっているときには、牢獄がいい場所であると自分に言い聞かせるかもしれないが、開いていたとすれば一目散に逃げるのである。
人は不自由を自由に選択したいという強い欲求を持っている。そこにこそ真の幸福があるのではないか?
もしそうではないのであれば、「自らの意志に反する不自由を押し付けられることで結果的に幸福になるのだ」と主張し続けようとするのであれば、その主張はそっくりそのまま返すことができる。
「自由に私をコントロールしたいのですか? いやいや自由は良いものとは限りませんよ? 不自由の中にこそ自由があるのですよ?」と。
あるいはもっと挑発的に次のように言ってもいいだろう。
「では、私の足を舐めてください。不自由のなかにこそ、自由があるんですよね?」と。
もちろん、発言主が橋本環奈であったなら、彼は喜んで舐めるかもしれない。しかし、小汚いオッサンであったなら決して舐めないはずだ。そのとき彼は、不自由を自由に選ぶことにこそ幸福があると、身をもって実感するだろう。