やっているアピールは、誰にアピールしているのか?【雑記】
小学生の自殺数が高止まりしているらしい。
誰がどう考えても問題である。国家として、あるいは社会としてあるまじき状況である。本来なら希望に満ち溢れた日々をすごしていて然るべき小学生が、絶望のどん底で次々に自殺しているのだから。
その危機感をどうやら厚労省も共有しているらしい。厚労省は顔をキリっとさせながら、対策を発表してくれる。
さて、これを読んで大人たちはどう思うだろうか?
「良かった! 厚労省が相談事業を拡充してくれるんだ! こころの相談統一ダイアルなんてものもあるらしい! このことを小学生たちが知れば、もう安心だ! きっと自殺数は減っていく!」と感じただろうか?
・・・・そんな大人がいたなら、一目見てみたいものである。
多くの大人たちは厚労省のお馴染みのやり口をみて、こう思うだろう。「そういう問題じゃねぇ」と。あるいはよりシニカルな人ならば「やってるアピールで時間を無駄にするくらいなら、鼻くそでもほじってろ」といった感想を抱いたかもしれない。
デュルケムに言われるまでもなく、自殺とは社会が抱えた問題である。相談窓口、あるいは対策委員会のようなものは対症療法にすらならない「やっているアピール」の典型例だが、ここで求められているのは根本的な治癒であることは言うまでもない。
とはいえ、ここで一つの疑問が生じる。おそらくこれが「やっているアピール」であることは多くの国民が気づいているし、やっている本人たちもそう感じていることだろう。つまりアピールになっていないのである。だとするならば、「やっているアピール」は誰のためにやっているのだろうか?
おそらく誰のためでもない。強いて言えば、ラカンのいう「大文字の他者」おためであろう。大文字の他者とは、夏場にネクタイを締めていないビジネスマンを見て心の底から傷つくと想定される主体であり、相談窓口が設置されるのを見て「うん、厚労省はキチンと対策しているな・・・」と素朴に信じる主体であり、マスクとトイレットペーパーの原料が同じだと勘違いしてトイレットペーパーを買い占めようとする主体であり、ジャニーさんが性加害していることをBBCの報道で初めて知る主体である。要するに、日がな一日ポカンと口をあけながらEテレを見ているような、純朴で疑いを知らない人物である。
多くの大人たちは純朴な大文字の他者が社会の多数派を占めているかのように想像し、その一枚上手のクレバーな存在として自分を位置づける。コロナ禍の最中、トイレットペーパーを買い占める人々は口を揃えてこう言っていた。「トイレットペーパーを買い占めようとするアホな人らがおるから、私も買っとかなあかんやろ?」と。
きっと相談窓口という対策をみたとき、人々はそれが茶番であることを見抜きつつも、相談窓口の設置で納得してしまう大文字の他者を想像し、とやかく言わない。クレームも入らないだろう。
一方で、「相談窓口の設置などに取り組もうかと思いましたが、そんなやっているアピールに税金と時間を無駄にするくらいなら、なにもしません!」と厚労省が宣言したならどうなっているか? きっと多くの人々はこう思う。「いやいや、俺は納得するけどね。でも、大文字の他者はどう思う? 怒り出すんじゃないか? 形だけでもきちんと対策しないとダメだろう? 大事なのは誠意だろ?」と。人によってはクレームを入れるかもしれない。
その結果、公務員たちは大文字の他者対策の「やっているアピール」に就業時間の大半を注ぎ込むことになる。「やっているアピール」をAIで自動化できたなら、きっと公務員の8割は失業してしまうことだろう。ぜひやって欲しいものである。対策委員会を自動で立ち上げるAIや、やっているアピールのためのポスターを自動生成し役所のモニタ―に自動表示させるAIや、相談窓口を自動音声で対応するAI。もちろんこのAIは民間でも大活躍だろう。プレゼン資料や報告書、始末書、対策会議、コンプライアンス部門・・・サラリーマンも同様に8割方失業してしまうかもしれない。
もちろん僕は今少しふざけている。AIで自動生成されたやっているアピールは、さらなるクレームを呼び込む結果にしかならない。人間が深々と頭を下げなければ大文字の他者は納得しないのだ。
こうした茶番を撲滅して、真の対策に乗り出すためにはどうすればいいものか。少なくとも、茶番を「茶番だ」と言うことなくしては始まらない。僕も茶番を見たら、茶番だと言うように心がけようと思う。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!